人生を振り返ることについて:私の謎 柄谷行人回想録①
記事:じんぶん堂企画室
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――常々「忘れっぽい」「書いたら忘れる」と公言されている柄谷さんに、生まれてから現在までのこと、まだ書いていないことをお聞きしておきたいということで、連続インタビューをお願いしました。実は、『世界史の構造』(岩波書店)が2010年に刊行された後、朝日新聞から同じようなお話を頼んだときは、結局お断りになったと聞いています。
柄谷 最初はやってもいいかなと思ったんですよ。でも、回顧には関心がないし、まだこれからやろうとしているのにと、考えが変わった。『世界史の構造』を書いてすぐは、「これで終わり」という感じもあった。だけど、違ってたね(笑)
――まだ自分の仕事は終わらない、半生を振り返るのはまだ早いという気持ちになったわけですね。
柄谷 そうです。そういう意味では、今も難しい。だけど、今後、僕の方はあまり変化がないと思います。変化するのは、世の中の方でしょうね。といっても、僕からみると変化じゃなくて、予想通りです。
――「戦争の時代が来る」と指摘されていましたが、ウクライナにロシアが侵攻する事態になっています。
柄谷 1989年のベルリンの崩壊以来、新聞も含め、「歴史の終焉」だとか、くだらないことを言ってきたんだからね。それが壊れたからって騒ぐなよ、と。初めからわかり切ってるじゃない。……などとまた言う気もしない。
《1989年に米国の政治学者フランシス・フクヤマが、論文「歴史の終わり?」を発表。その後、91年にソビエト連邦が崩壊、フクヤマの仮説に基づいて歴史は自由・民主主義の勝利に終わった、という論調があった。柄谷さんは、国家・資本・ネーション(民族)が結びついた体制は終わっていないと考え、『トランスクリティーク』(2001年)以降の思想的な仕事に本格的に取りかかっていくことになる》
――『トランスクリティーク』から『世界史の構造』、『力と交換様式』(いずれも岩波書店)と、柄谷さんは「交換様式」という問題に取り組んできました。昨年秋に刊行された『力と交換様式』についてのインタビューでは、「これ以上ないというところまで書いた」とおっしゃっていました。四半世紀にわたって取り組んできた問題に一区切りついて、いまどんな心境でしょうか。
柄谷 コロナの少し前から、あまり外に行かないで、家の周りを歩くだけの日常を3年以上送ってるからね。そういう状態でものを書いていた。世の中から離れてしまった感じが、まだ続いているんです。
-- 最近は多摩丘陵での午後の散歩を日課にされているんですよね。歩きながら考えるんですか。
柄谷 目的を持って歩いてはいない。だけど、考えることは止められない。考えたくないから歩いてるんだけど考えちゃうんですよね。
『力と交換様式』を書き終わって以来、何を考えていたかというと、その体験を考えていた。
――人に会わずに多摩丘陵を歩きながら考えたという体験について?
柄谷 というよりも、その体験から出てきた問題を考えていたわけだけど。
たまたま歩いてたようにみえるけど、自分の人生がそこに凝縮されている気がしたんですよ。例えば、僕は1970年代前半に柳田国男論を書いて、それから『日本近代文学の起源』のもとになるものを持って、アメリカに行ったんですよ。そこで柳田や「風景の発見」の講義をやった。同時に、マルクスについても考えていたんです。
《柄谷さんは74年、「マルクスその可能性の中心」を「群像」で連載。75年9月から35歳でイェール大学東アジア学科の客員教授として渡米し、明治文学史のセミナーを担当した。そのセミナーの草稿をもとに、『日本近代文学の起源』が書かれることになる》
柄谷 別々に見えるけど、自分にとっては同時的にやっていたことなんだね。だから、どう繋がっているかわからないように見えるだろうけど、どれも僕がやっているんだから、僕の中では繋がっていたということだよね。
新しい境地が開けたという感じではないですね。むしろ昔に戻った感じがする。『マルクスその可能性の中心』から『力と交換様式』が出てきたわけだし、もう一方には、「風景の発見」がある。「風景の発見」は、どういう風景なのかというと、いま僕が歩き回っている多摩丘陵に見出される風景なの。近代日本文学が始まったのは、このような“田舎”からですよ。代表的なもので言えば国木田独歩ですよね。それから、徳冨蘆花。僕が昔住んでいた桜上水の近くに蘆花公園があって、これはもともと蘆花の家だったところです。『遊動論』を書いていたときにわかったんだけど、柳田国男が成城から蘆花の家まで歩いて遊びに行っている。昔の人は、そのくらいの距離は日常的に歩いていたのかもしれないね。成城といっても、当時は田舎ですし。
――『世界史の実験』(2019年、岩波新書)では、柳田国男について改めて考えるようになったことについて「日本」や「文学」への回帰かもしれない、と書かれていました。
柄谷 『力と交換様式』を書き終えて、書けるところまで全部書いたと思いつつ、次に何をやろうかと考える。だけど、それより先に、書いている間に、自分が現に生きてたことに意味があるんじゃないかと思う。要するに、この間、『力と交換様式』を書きながら、柳田も歩いた多摩丘陵を歩いていた、という経験ですよね。そこで柳田に出会い直した、というより、初めて出会ったような感じがしている。今考えているようなことは、これまでも何度も考えてきたのにね。自分が歩いているなかに、物書きになってからずっとやってきたことが、反復的に凝縮されているのかなっていう気がしたんですけどね」
――文芸批評と現在の思想的な仕事はやはりつながっているんですね。『力と交換様式』も文芸批評だとおっしゃっています。
柄谷 僕がやっていることはいまでも文芸批評ですよ。文学として人が思うような形でものを言ってないだけでね。だから、僕のやっていることは、「文芸批評の可能性の中心」だと言っているんだ(笑)
――『マルクスその可能性の中心』のあとがきでは、マルクス論と日本文学についてのエッセーを区別していない、と書かれていますね。「マルクスを読むように、漱石を読んできた」とも。
柄谷 僕がそう思っているだけで、世間がそれを受け入れているかどうかはしらない。ただ、僕が批評をやろうと思ったときと、いまの人が思っている文芸批評とは違うと思う。文芸批評というのは、なんでもできる気がしたんですよ。何を取り上げてもいい、という。だから僕は批評家になったし、批評家だったということに最近あらためて気がついた。若い読者は、僕のことを哲学的だと思っていて、かつて文学を論じていたことに驚いたりする。でも、批評なんだから分野を限定しないのは当然のこと。
例えば、吉本隆明は批評家ですよ。哲学者とかというのはおかしいと思う。柳田国男とか花田清輝、埴谷雄高にしても、そういう意味では批評家だった。その後、僕の場合は批評家を名乗っていると、文学作品の批評を書かないのかと言われるのが面倒になった。じゃあ哲学者でいいよ、ということになっただけでね。
つまり、古今東西、いろんなものを読みつつ考えたということですね。文芸批評は、文学作品だけで出来るなんていうのはありえないからね。どんな人でも、文学だけで生きてるわけないじゃない。だけど、すべて文学だと言えば文学だし……。
――批評とはなにか、あるいは、文学的な仕事と思想的なしごとのつながりについては、この連載でも聞いていきたい大きな関心事です。
柄谷 今度、講談社から昔の対談をまとめたシリーズの3巻目(『柄谷行人対話篇Ⅲ』)が出るので、三浦雅士との対談を読み直していて、一番若い頃、漱石論をやっているときから、交換様式に発展するようなことをやっていたと感じました。その後、「探究」でやっていたコミュニケーション論、「教える」「学ぶ」ということも「交換」の問題なんですよ。そのときには、言語論として見ていて、交換として見ていなかった。だけど、結局「交換」を考えていたんじゃないのかというふうに気がついた。
――柄谷さんの提唱する交換様式では、自由と平等を担保した未来社会といえる「D」の社会について、「向こうから来る」とおっしゃっていますね。これは、漱石論、そして「探究」へと引き継がれる「他者」の問題とつながっていると感じます。
柄谷 そうなんでしょうね。ずっと同じことを考えてきたのかもしれない。「探究」で言っていたような「単独性」とか「外部」とかいった話と、交換様式論はどう結びついているのか、というようなことを人に時々聞かれることがあったんだけど、こっちはそんなことを書いたことも忘れているから、関係ないと思う、と答えてきたんですよね。でも、このところ、つながっていたんだろうという気がしてきています。
――柄谷さん自身は、対談などで断片的に自分自身のことをお話されてはいますが、まとまった形で、自分のことを振り返ることは積極的にはされてこなかったと思います。
柄谷 そうですね。振り返るとすれば、結局思想のことになるからね。それは毎日振り返っているようなもんだから。自分のことは、別に言うほどのことではない。
――今回はあえて、小さい頃のことや昔のこともお聞きしたいと思っているわけですが、個人的な出来事と思想は、ある程度の関連がありますか?
柄谷 それは、ものすごくあります。僕は子どもの頃からほとんど変わっていませんね。昔、江藤淳に『成熟と喪失』という本がありましたよね。人間が成熟することは喪失を伴うという感じなんですけど、僕は、そういうのはないですね。全然成熟してない(笑)。しかし、喪失もしてないですよ。
だから、いまだに同じことをやってるようなものです。昔から謎があったね。自分にとっての謎を考え続けてきた。
――「謎」というのは?
柄谷 どうしてこういう人間なんだろうということを思いますね。今取り組んでいる問題も、もっとさかのぼっていったら、そういう実存的なことに行き着くのかもしれない。
別にそんなもので思想家は成立しませんよ。だけど一方では、どうも哲学とか何とか言っても、結局その問題をやってるんだよな、という感じがする。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、生まれ育った地方やお父さん、「奇妙な子どもだった」という幼少期についてのお話です。月1回更新予定)