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ジョン・F・ケネディの学んだ「勝利の法則」 『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』[後篇]

記事:白水社

『ニューヨーク・タイムズ』はじめ各紙誌絶賛! フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』上下巻(白水社刊)は、ジョン・F・ケネディの出生から大統領選出馬の決意を固めるまでの39年間の道のりをたどり、伝説と化したJFKの実像に迫る評伝の決定版。
『ニューヨーク・タイムズ』はじめ各紙誌絶賛! フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』上下巻(白水社刊)は、ジョン・F・ケネディの出生から大統領選出馬の決意を固めるまでの39年間の道のりをたどり、伝説と化したJFKの実像に迫る評伝の決定版。

[前篇はこちら]

若々しい新人下院議員。執務室にて(1947年初頭) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P.47より]
若々しい新人下院議員。執務室にて(1947年初頭) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P.47より]

 1945年の終わりにはジャックの気持ちは固まっていた──連邦議会の席をめざすと。一般的にはこの時期には父親の言いなりだったと考えられているが、この決断はジャックが1人で下したものだったということに留意すべきだろう。[中略]

 その地区と州〔マサチューセッツ州ボストン〕から出馬する正当性を得るため、ジャックはビーコンヒルにあるベルヴュー・ホテルのなんら特徴のない、家具もわずかしかない2寝室のスイートルームに移り住んだ。そこには今では82歳になりながらも、かつてないほど饒舌になったハニー・フィッツ〔祖父〕が住んでいた。州議会議事堂のすぐそばにあるその部屋は、まだ宣言もされていない発生期にある選挙キャンペーンの拠点になり、序盤戦の方針や作戦が徹底的に話し合われた。

やがてボストンのトレモント・ストリート18番の2階にある薄汚いスイートルームに選挙対策本部が設置され、さらに選挙区内に点々と選挙事務所が設けられた。ライバルの候補者たちはまだ何も始めていないどころか、人によってはまだ出馬の意志すら固めていなかった。

その後のジョン・F・ケネディのすべての政治運動に共通する、ライバルの誰よりも早く始めて誰よりも精力的に動くという現象はこんなふうに始まったのだった。正式な出馬表明をした4月22日の何カ月も前から彼はこつこつと遊説し、金を使い、キャンペーンチームの組織づくりをした。

フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社) JFKとして知られるケネディ家の次男「ジャック」がどのように政治家の道へと進んだのか、ひもとかれてゆく。
フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社) JFKとして知られるケネディ家の次男「ジャック」がどのように政治家の道へと進んだのか、ひもとかれてゆく。

 彼の経験不足は明々白々だったので早く始めたのは正解だった。演説に関しても、国際問題について語ったときにはかなりの反響があった。キャンペーンの初期にアメリカ在郷軍人会で行ったヨーロッパの戦後についてのスピーチは絶賛され、原稿のコピーには100部以上のリクエストがあった。

だが、いったん地方自治体や州の政治について話そうとすると、途端に自信を失った。一転、ぎこちなく硬い口調になり、しかも早口で目は原稿に釘づけ、甲高い声はまったく抑制が利かなくなった。彼には年季の入った政治家たちに備わった即興で気の利いたことを言う能力が欠けていた。アドリブで何か言おうとすると言葉に詰まり、それで余計に自信を失った。後で振り返って不機嫌になることが多く、そんなときは改善すべき点を見つけるため、父とともに問題のスピーチを最初から最後まで見直した。

「今でも二人が一緒に座っている姿が目に浮かぶわ」とユーニス〔妹〕。「スピーチ全体を分析したり、どこがうまくいって、どこがうまくいかなかったかを発見して、話す速度を検討したり」

 またジャックはそういったイベントで堂々としているようにも見えなかった。弱々しく、骸骨のようにやせていて、そのせいでロータリークラブのある会員に言わせると「父親の服を借りて着た小さな男の子」のように見えた。周期的にぶり返すマラリアのせいで肌は黄色みを帯びていた。とくにキャンペーンの初めの頃には、彼の振る舞いからは内気さや間の悪さや、プライバシーに対する自衛本能が露呈していた上に、赤ん坊にキスすることや、バーで知らない人たちと世間話をすることにもまったくと言っていいほど興味を示さなかった。

「彼は人と交ざり合うのが得意じゃなかった」と選挙運動員の1人は振り返る。「群れの中に入っていって誰彼なくつかまえて『ジャック・ケネディです』と言うなんてことはなかったね」

 だが、彼には一族の名に代表される有利な点も数多くあった。ジョー・ケネディの名声はマサチューセッツ州外では地に落ちていたかもしれないが、ボストンの有権者たちはまだ彼のことを可能ならばかかわり合いたい伝説的な一族の家長と見なしていた。しかも彼は巨万の富を有する家長で、ジャックが勝利するためならいくら使ってもいいと明言していた。父と息子はまもなく精鋭のキャンペーンチームを組成した。[中略]

ジャック・ケネディ ハイアニスポートにて(1940年代初め) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』上下巻(白水社刊)P.7より]
ジャック・ケネディ ハイアニスポートにて(1940年代初め) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』上下巻(白水社刊)P.7より]

 ハーヴァード大学卒の大富豪の御曹司は、地域の中でもとりわけ貧しい住民の多い地区で、候補者としての効力を発揮しはじめた。まさに彼のおとなしさや素人くささが有権者たちの目には誠実さや形式張らなさとして映り、またシャイなところはそれまでのシニカルで口達者なアイリッシュの候補者たちとは対照的でさわやかに感じられたのだった(ジャックはそういった豪放磊落な人物や彼らの前時代的な政治についての逸話を聴くのは大好きだったが、自分もそうなりたいとは思っていなかった)。

彼はそういった住民たちに上から目線の態度もとらなければ、彼らへの感謝を忘れることもなく、「お母さんは元気?どうかよろしく伝えて」的な馴れ馴れしさを押し売りする手も使わなかった。代わりにスピーチを短くし、質問に時間を取ることで点を稼いでいった。

 「彼の振る舞い方を見ていると、すごく握手が上手なことや、ほほ笑み方を心得ていることや、人の名前をよく覚えていることに気づきます」と、キャンペーンを手伝ったハーヴァード時代の友達トニー・ガルッチオは話す。「彼を紹介したら誰でもすぐに彼個人を好きになります。1人の人間として気に入るのです」。キャンペーンを取材した地元のジャーナリストもこれには同意した。「彼に会えば彼に投票します。そのくらいシンプルです。[彼の勝利について]複雑な理由を探したなら1つも見つからないでしょうがね」

 「ジャック・ケネディには身についた品位がありました」とデイヴ・パワーズ〔側近〕は語る。「それは彼の態度に見られる誇り高さで、それがそれまでのアイリッシュの政治家たちに典型的だった感傷的な田舎くささを気恥ずかしく感じ始めていたすべてのアイリッシュにアピールしたのです。彼ら自身も中流階級になりつつあり、自分たちの地位の上昇を反映するリーダーを欲していたのでしょう」。パワーズの回想の解釈には、彼が死ぬまでジャック・ケネディの揺るぎない忠実な擁護者かつ“JFKの炎”の番人であり続けたことを計算に入れるべきなのだろうが、このような評価をしたのは彼に限らなかった。ジャックの候補者としての好感度の高さを悟ったパワーズは、自分の仕事はシンプルだと思った。「私の最終目標はジャック・ケネディをとにかくできるだけ多くの人に引き合わせることでした」

ジャックを囲んで。家族と友人たちとディナー。 (着位左から)フランシス・X・モリッセイ、ジョージー・フィッツジェラルド、ユーニス、ジャック、ハニー・フィッツ・フィッツジェラルド、ジョセフ・F・ティミルティ。レム・ビリングスはジョージーの後ろに立っている。のちに側近になったケニー・オドンネルとヘレン・サリヴァン(将来のオドンネル夫人)はケネディとハニー・フィッツの後ろに立っている。[『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P.113より]
ジャックを囲んで。家族と友人たちとディナー。 (着位左から)フランシス・X・モリッセイ、ジョージー・フィッツジェラルド、ユーニス、ジャック、ハニー・フィッツ・フィッツジェラルド、ジョセフ・F・ティミルティ。レム・ビリングスはジョージーの後ろに立っている。のちに側近になったケニー・オドンネルとヘレン・サリヴァン(将来のオドンネル夫人)はケネディとハニー・フィッツの後ろに立っている。[『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P.113より]

 「人びとは無意識のうちに新しいタイプの候補者を探しています」。ガルッチオも同意する。「そしてジャックはそれにぴったりフィットしたのです。彼は、見かけはうぶでした。額にくしゃくしゃの髪がかかってね。それにすごく謙虚な億万長者でした。人びとはよく、この男は〔貧乏人から〕盗むような人間じゃない、なんてことを言いますよね。思うに、これがマサチューセッツの政治革命の第一歩でした。まさにジャック・ケネディはこのパターンにはまったのです。その他の部分は彼の金で、友人をつくる能力で、仕事をこなす並外れた能力でやれました。彼は生活費を稼ぐ必要はなかったけれど、1日の時間の1分1秒も無駄にせず、行くべきところに行き、自ら進んで人に会っていました」

 最後のポイントが最重要だ。ケネディは休むことなく、自らを前進させ続け、けっして長く休もうとはしなかった。勝利する新人候補者の多くに共通するこの労働倫理は、1946年の冬の終わりから春にかけてのあの重要な数週間に何よりも選挙運動員やその他の周りにいた人たちの記憶に残っている。戦争の経験は彼を強くし、彼はそれを選挙運動で証明し続けた。[中略]

 ケネディにはとりわけ強力な個人的逸話があった。行く先々で彼は有権者たちに、かつては国のために戦い、今はその国を率いる手伝いをするために戻ってきた戦闘経験者として自己紹介した(「新しい世代から指導者を」という選挙スローガンは、ヘンリー・ルース〔タイム社創設者〕が『英国はなぜ眠ったか』のために寄せた序文の中の「もしジョン・ケネディが若い世代の代表なら、私はそう信じているが、われわれの多くがすぐにでも喜んでこの国の命運を彼の世代に託すだろう」という部分をもとにジョー・ケーン〔父のいとこ〕が生み出した)。

彼はよく兄の任務とその無私の勇気について触れ、彼の名を冠して新しく「海外戦退役軍人の会」をつくった。また退役軍人を称えるイベントで話をする機会を積極的に求めた。

 一方で、南太平洋での彼自身の体験談についてはあまり多くを語りたがらなかった。当時ものちにも、魚雷艇PT109での英雄的行為は「他にしようがなかったのです。私のボートが沈められてしまったので」という有名な言葉ではぐらかした。選挙戦の初め頃、彼はある運動員に「失われたPTボートと腰痛を選挙戦に利用する」ような悪趣味は自分にはないと言っている。

PT109上のケネディ中尉(1943年7月) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P19より]
PT109上のケネディ中尉(1943年7月) [『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社刊)P19より]

だが、次第にすでに有権者たちの一部にはよく知られているその体験談をわざわざ使わないでいるのはもったいないと悟り、109の沈没を描写するも救助に自身が果たした役割は最小限にとどめ、一方でクルーたちの忍耐力を称賛する簡潔でパワフルなスピーチを用意した。

父の強硬な勧めにより、〔ジャーナリスト〕ジョン・ハーシーの手になる「サバイバル」(リーダーズ・ダイジェストに掲載された記事)の短縮版が10万部ほど刷られ、1319ドル(印刷代と封筒代)と郵便料金がかかったが、投票日の数日前に有権者の郵便箱に届けられた。封筒の宛名書きと郵送にはボランティアが雇われた。

努力は報われた。

ある対立候補の妻はその記事に感動したあまり、ケネディに投票すべきかもしれないと口走ったそうだ。

【フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社)所収「15 候補者」より】

フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社)目次
フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』下巻(白水社)目次

【著者動画:"JFK: Coming of Age in the American Century" - A conversation with Fredrik Logevall】

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