ジョン・F・ケネディの学んだ「勝利の法則」 『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』[前篇]
記事:白水社
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両親の教えの中心にあったのは教育の重要性、怠けないこと、公務に対する敬意、家族への忠誠心であった。しかし、何よりも重要なのは勝つことだった。
ジョー(父)は、大事なのはいいプレーをすることでも、競争のための競争をすることでもなく、すべての参加者を打ち負かしてトップの賞を勝ち取ることだと口がすっぱくなるまで繰り返した。それに比べれば、スポーツマンシップの重要性すらないがしろにされた。「ここに敗者はいらない。欲しいのは勝者だけだ」と宣言した。
彼とローズ〔母〕は子どもたちを6、7歳からスイミングとセーリングの競技会にエントリーさせたが、彼らが互いに敵になるといけないので、同じカテゴリーに入らないよう気を配った。
ジョーはいつもゴールラインにいちばん先に到達しろと子どもたちをけしかけた。
「父がいつも言い続けていたのは、2番じゃだめだってこと」。スポーツ万能で、優秀な漕ぎ手になったユーニス〔妹〕は語る。「大事なのは勝つこと、2位や3位になるな。それじゃ意味がない、とにかく勝て、勝て、勝て」。
そんなだからハイアニスのコミュニティで、ケネディ家が勝つためなら何でもする品のない競争者だとの評判を得ていたとしても不思議ではない。[中略]
ハイアニスポートの家を訪れた人びとたちは、日中のアクティビティの完璧なスケジュール管理に驚嘆した。ここで過ごす夏は気だるい雰囲気の中で日光をたっぷり浴びる休暇ではなかった。
ジョーは自分の子どもたちがたとえほんのつかの間でもぶらぶら過ごすことには我慢がならず、過密スケジュールを押し付けた。彼の妻もまた同様に感じていた。
毎晩、ローズは翌日のスケジュールを発表した──時にはプロのコーチもつけて、テニスに始まりゴルフ、スイミング、ヨットへと。またダイニングの隣の掲示板には新聞や雑誌から子どもたちに読ませたい記事を切り抜いてピンで止め、家のあちらこちらには読書を促すために専用のランプを設置していた。
金曜の夜はムービー・ナイトと称して、27席ある地下のシアターで映画を見ることになっていた。土曜にはさらに多くのスポーツをし、ディナーの後はふたたび映画を見るか、ジェスチャー・ゲームをした。
ナニー〔ベビーシッター〕が世話をしている小さな子どもたちは敷地外で自転車に乗ることは禁じられていた。家庭教師が面倒を見ている大きな子どもたちは、日が暮れて街灯がともった後は家の中にいる決まりになっていた。
食事時間の5分前には全員がダイニングテーブルの席に着くよう求められ、ディナーは毎晩きっかり7時15分に始まった。ローズは誰も遅れないよう、各部屋に時計を置いていた。
ケネディ家はアメリカでも指折りの大金持ちだったが、ゲストたちがこれ見よがしの金満ぶりや派手な消費を目にすることはほとんどなかった。むしろ、その真逆だった。
「各人にナプキンが与えられていて、それを1週間はもたせることになっていた。もし染みが付いたりしたら──もちろん、そのためにナプキンはあるのに──最悪だった」とテディ〔弟〕はのちに振り返る。
家の中の家具は快適ではあったが、ほとんどがごく普通のものだった。自転車やスポーツ用品はたいてい雨風にさらされてぼろぼろになっていたが、完全に壊れるまで使うことになっていた。
誕生日にも子どもたちは1つか2つしかプレゼントはもらえなかったし、それも高価なものではなかった。彼らが週ごとにもらえる小遣いも少額に保たれていた。
家族の結束が強いケネディ家は自己完結していて、ピッツバーグ在住のプロテスタントが中心のハイアニスポートの他の家族とはあまり交流していなかったと後年言われることがあった。
一例としてレム・ビリングス〔友人〕もこの説を否定してはいない。しかし、その主な原因が他の人びとのカトリックに対する偏見にあったかどうかは疑問視している。
「子どもたちはハイアニスポートのすべてのパーティーにちゃんと招待されていましたし、ピッツバーグのプロテスタントの子どもとカトリックのケネディ家の子どもが交わることになんら問題はありませんでした」と彼は述べている。
「かつてケネディ家を訪問していたときに、私のほうがケネディ家の子どもたちよりハイアニスポートの少年少女をよく知っていたというのは事実です。それは私自身がピッツバーグで彼らとともに育ったからですが、だからと言ってケネディ家の子どもたちが何であれ何かに招かれなかったわけではありません。とはいえ、彼らはものすごく自己充足的な家族ですから、おそらく招かれたものにしょっちゅう行ったわけではないでしょう。彼らが必要とするものはすべて家の中にありましたからね。自分たちの映画館も、自分たち専用のアスレティック施設も」
子どもたちの間には常に競争の文化があった。訪問客は「私たちの中でいちばんルックスがいいのは誰だと思う?」「誰がいちばん面白い?」「誰の服がいちばん好き?」などと質問攻めにあった。
芝生の庭での一見フレンドリーな“タッチ・フットボール”も、何も知らないゲストたちが仰天するほど熾烈なバトルと化した。のどかな石飛ばしの遊びはもちろん、ナンタケット海峡で誰の貝殻がいちばん遠くまで流れていくかを見守っているときさえも競争になった。
たとえば家族で車の到着を待っていて、何分か時間をつぶさなくてはならなくなった時にも、必ず誰かがゲームを思いついた。ボードゲームやジェスチャーさえもが熱い闘いになった。
12歳と10歳になったジョー・ジュニア〔兄〕とジャックはペアを組んで地元のヨットレースで勝利しはじめ、その後も引き続いて勝利をものにしていった。ユーニスもすぐ2人に続いた。一方、パトリシア〔妹〕は優秀なゴルファーになった。
ときおり、父もスポーツをする気になったときには、確実に自分が勝てるとわかっている種目で息子たちを相手にした。必ずと言っていいほど80台前半から半ばをたたき出す優秀なゴルファーの彼は、ジョー・ジュニアとジャックを相手取り、毎回勝利した。テニスでもいつも息子たちには楽に勝っていたが、ある日、十代半ばに達したジョー・ジュニアにあやうく負けそうになった。
父と息子のテニスマッチはその日を境に終わった。
彼からしたら、息子の一人に敗れるくらいならラケットを置くほうがましだったのだ。
何年ものち、週末に一家を訪問して疲労困憊した経験のある客が「ケネディ家訪問のルール」を次のようにまとめた。
ケネディ家の各人に他のメンバーの(a)服装、(b)髪型、(c)テニスのバックハンド、(d)最近の公共の場での功績について質問されることを覚悟しなさい。その場合、必ず「すごい」と答えること。これでディナーを乗り切れるでしょう。次はフットボールのフィールドです。“タッチ”と呼ばれていますが、その実態は殺人です。これをプレーしたくないなら来てはいけません。来たならプレーしなさい。さもないとキッチンで食べる羽目になり、誰も口を利いてくれないでしょう。少女たちに騙されてはなりません。相手がたとえ妊娠していようが、あなたは恥をかかされます。何にも増して大事なことは、どんなスポーツもけっして提案してはいけないということ。たとえあなたが学校時代にクォーターバックだったとしてもです。ケネディ家はシグナル一つで各人が突進するようプログラムされた組織で、かつ全員に優れたリーダーシップがあります……彼らはすべてのプレーで狂ったように走り、大騒ぎします。いかにも楽しんでいるといったそぶりは見せないこと。ゲームに真剣に取り組んでいないと責められる羽目になりますから。
【フレドリック・ロゲヴァル著『JFK 「アメリカの世紀」の新星 1917-1956』上巻(白水社)所収「3 次男」より】
【著者動画:Fredrik Logevall on John F. Kennedy & coming of age in the American century | LIVE EVENT】