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私は『〈私〉の哲学 をアップデートする』のどこに興味を持ったか

記事:春秋社

関係のない冠
関係のない冠

はじめに

 本記事は永井均先生のツイートに影響され、『〈私〉の哲学 をアップデートする』(以下、「アップデートする」と呼称)のどこに興味をもったかについて書いてみる記事である(元のツイートは興味ではなく、理解だが)。

 前回、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか――哲学探究3』の記事で書いたように、私が永井哲学に出会ったきっかけは『仏教3.0を哲学する』だ。だから、私の興味関心はそれに関係したものである。

 「アップデートする」でそれに関係する部分と言えば、谷口先生の発表原稿にあったマインドフルネスに関する注21と、グノーシス主義的なキリストの受肉の意義づけを独在論的に解釈する注12、そしてそれらへの永井先生のコメント、あとは質疑応答の「無寄与的である私がなぜ、何かに気づくという実質的な働きができるんでしょうか。」という注21に関する質問に対する永井先生の回答である。

 以上のように数えるほどしか関係する部分はない。ただ、『仏教3.0を哲学する』を無寄与であるはずの〈私〉の寄与に関する本だと考えれば、谷口先生のアフターソート「人生に山括弧の相渉るとは何の謂ぞ」はまさにその問題を扱っていると言える。前回の記事で提示した不純な自尊心は無寄与であるはずの〈私〉の寄与の問題である。

 ちなみに不純と表現したのは自尊心を湧かせるために永井哲学に触れるのは動機が不純だからである。

〈私〉と気づき

 まず質問について触れれば、質問に対する答えはノーである。

無寄与的な私が何かに気づくっていう実質的な働きをするわけじゃなくて、そういうふうに理解するっていうことですよね。「アップデートする」p.177

 そもそも『仏教3.0を哲学する』で永井哲学が役割を果たすのはマインドフルネスの理解においてである。

 マインドフルネスとは仏教の瞑想法に影響を受けた精神治療的な瞑想であり、その中心は「気づき」である。ある対象に心が捕らわれているときに、それに気づくことでその捕らわれを軽減することができる。

 問題になるのは、心が捕らわれていることに気づくための心が捕らわれてしまっているので、心が捕らわれていることに気づくことができないということだ。ここにはレベルの違う心を導入しなければいけない。このレベルの違う心が〈私〉というわけだ。

 このレベルの違う私のことを宗教はいろいろに表現してきたが、神話やその信仰に基づいた根拠薄弱なものに過ぎなかった。そこに確固たる裏付けを与えることができるのが、永井哲学だった。

 しかし、レベルの違う心として導入された〈私〉は無寄与なものなので、気づくという働きを果たせない。だから、そのように理解するということに留まる。

 実際に起こっていることとは違うにせよ、そのように理解することが実際にマインドフルネスの効果に影響するのなら、実践的にはそれでよいのである。

〈私〉と偶然

 次に谷口先生の「人生に山括弧の相渉るとは何の謂ぞ」に触れる。

 〈私〉は無寄与なので、

私が「なぜこいつが〈私〉なのか?」と問うているときでも、私は、現に私が〈私〉であるから、、「なぜこいつが〈私〉なのか?」と問うているわけではないことになる。(中略)たまたま〈私〉でもあった人物が世界の内でたまたま「なぜこいつが〈私〉なのか?」という問いを発したにすぎず、そのときその人物がたまたま〈私〉でもあったことは、ただの偶然にすぎない。「アップデートする」p.277

 私が不純な自尊心の話をして同感である方が現れるというのが、まさにそのことを示している。私は私だけが〈私〉だから自尊心が湧くと言っているのに、〈私〉ではまったくない他人も同感する。私が〈私〉だから自尊心が湧いたという因果関係を主張しても認められない。実際にそうであることと、そのように言うことが因果的に断絶してしまっているので、言っていることが正しいとしてもそれは偶然でしかない。このことは『私の哲学 を哲学する』の青山先生の発表にある映画のフィルムの比喩が秀逸である。

連続したフィルムの一コマがスクリーンに映し出されている。そして、スクリーンに映った人物が「私は今映し出されている」と言っている。この発言は正しいですが、しかしまともな正しさではない。そのコマが今たまたま映されているという事実によってこの発言は正しいわけですが、このコマの中の人物がその事実に基づいてこの発言をしているはずはない。この発言は、フィルムがどのように再生されるかとは関係なく、フィルムに刻まれているのですから。『〈私〉の哲学 を哲学する(新版)』pp.151-152

 この世界像を谷口先生は「グロテスク」(「アップデートする」p.277)と表現し、〈 〉を世界と摩擦させるための〈A変容〉という概念を提出している。正直に言ってその試みが成功しているのかはよく分からない。ただ、〈私〉の無寄与性に対する問題意識があるということだけは分かる気がする。

 私に湧いた自尊心もマインドフルネスと同様に、そのように理解するというだけで構わない。因果関係を示す必要はなく、とにかく結果が感じられているのだから。

(文・春秋社編集部)

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