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「あたりまえ」ではない不思議な私――『〈私〉をめぐる対決』挿し絵担当、マンガ家・内田かずひろさんが考えたこと

記事:明石書店

作・内田かずひろ氏。この記事のための描き下ろし。
作・内田かずひろ氏。この記事のための描き下ろし。

明日の私、昨日の私は存在するか?

 私はよく「明日から頑張ろう!」と思うときがあるのだが、明日になると『明日の私』は『今日の私』になっていて、結局頑張れないことがよくある。

 その原因はわかっている。

 実は『明日の私』なんていうのは存在しないからなのだ。

 そこで私は、「明日から頑張ろう!」と思った私に腹を立てて文句を言いたくなるが、既に「明日から頑張ろう」と思っていたときの私は『昨日の私』になっていて、やはりどこにも存在していないから文句も言えない。

 しかし『昨日の私』は昨日には確かに存在していたように思われるので、時々『昨日の私』が頑張ってくれていた場合、 「『昨日の私』よ、ありがとう!」 と思うことがあるが、『昨日の私』にお礼を言おうにも、やはり『昨日の私』は(今日から見れば)もう何処にもいないのだ。

 とすると、存在出来るのは常に『今日の私』なのだろうか。

 ただ、『今日』という24時間の中でも過去と未来を考えることができるように、もっとちゃんと言えば、存在出来るのは、まさにこの今という瞬間の私ではないだろうか。

 つまり、存在出来るのは、常に『今の私』のみなのではないだろうか。

 私にはこれらのことがとても不思議に思えるのだ。

世間の「あたりまえ」を鵜呑みにしない、疑ってみることから哲学は始まる

 最近知って感動したのが、鳥に言葉があることを発見した動物行動学者の鈴木俊貴さんの研究だ。

 それまで、鳥や動物の鳴き声は言葉にはなっていなくて、感情の表れに過ぎないと考えられていたのだが、鈴木さんは、シジュウカラの鳴き声に着目して、16年に渡る観察と実験により、シジュウカラに言葉があり文章が存在することを証明してみせたのだ。(詳しくは現代ビジネスの記事、「世界初! 「鳥の言葉」を証明した“スゴい研究”の「中身」」をご参照ください。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90014

 鈴木さんは、つい最近まで「あたりまえ」と思われ、誰も研究しなかったことを研究して、その「あたりまえ」が実は「あたりまえ」ではなかったことを突き止めたと言えるだろう。

 それは天動説が「あたりまえ」とされていた時代に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイもしかり。

 「あたりまえ」と思われていることを疑って、初めて発見や発明が生まれるのだ。

 哲学も、発見であり発明だと思う。 本書『〈私〉をめぐる対決』を読んで、私はあらためてそのようなことを感じた。

 「昨日の私や未来の私はいなくて、今にしか自分はいない(存在しない)」というのは一見すると「あたりまえ」のことを言っているようにも思える。こうした「あたりまえ」だと思われていることを鵜呑みにせず、掘り下げていくことから、発見や発明が生まれる可能性があるのだと思う。

仮説「タイムマシンで過去に行っても過去の自分は存在できない」

 本書からヒントを得て、ひとつ仮説を立ててみたいと思う。もしもタイムマシンで過去に行けたとしても、過去の自分は存在していないのではないか、という仮説だ。

 過去に行ったとき、むかし現在だった場所(時点)は既に過去になり、逆に、現在から来た私にとって、現実の現在は、どんどん未来になっている。そうすると、こんな疑問が思い浮かぶ。

 現実の最先端の現在(いまという時間の、まさに今であるこの瞬間)には、私は存在していないのだろうか?

 もしそうだったとしたら、過去から現在に戻るのであれば、出発点の現在よりも未来に進んだ時点の現在に戻らなければならない。 ということは、私が存在していない空白の時間が生まれることになる……。

 これもいわゆるタイムパラドックスのひとつなのかもしれないが、こういう問題を解決出来るのが、本書に出てくる〈今私〉なのだ(この記事では、〈今私〉を、「いまこの瞬間の私のあり方」という意味で用いています)。

 過去に遡ったとしても、過去ではそこが今ならば、私は一人しか存在出来ない。それは現在から過去に行った私が〈今私〉として存在しているからだ。 そのとき、過去の私は〈今私〉の存在により一時的に同化して、単独では存在出来ないのではないかと考えられる。

 現段階では確かめようがないが、もしこれが事実だったら、これまでのタイムスリップの概念まで覆ってしまうことになるだろう。

 このとき、考えてみて欲しいのが、〈今私〉のあり方だ。

 私は、本書の中の挿し絵で〈今私〉を『今』が縦に重なっている頂点にいる〈私〉として描いた。この私のあり方は、私が生きていればこそ可能になる。

内田氏が描いた、「積み重なる今の頂点にいる私」。(本書61ページより)。
内田氏が描いた、「積み重なる今の頂点にいる私」。(本書61ページより)。

今の私、〈今私〉は私が生きている証

(※ここから先は、本書のいう〈私〉や〈今私〉と異なる解釈になっているかもしれないので、私の戯れ言として読んでもらいたい。)

 生きていて、時間が連続している以上、『今の私』は常に今という時間の最先端にいる。

 しかし、私が死んでしまったらどうだろう? それまで、縦に積み重なっていた『今』が、一挙に横並びになって、『昨日の私』も『去年の私』も、全ての『過去の私』が積み重なることができずに、平たんな、同じ一列になってしまうのではないかと思うのだ。

 その証拠に、過去に『夫婦』だった2人がいたとしよう。しかしその2人が『離婚』してしまっていたら……。今は『元夫婦』になるだろう。そしてそれは名称だけでなく、感情的にも引きずられるのであって、過去に『好き』でも今『嫌い』なら……、『嫌い』の感情が優先されるのだ。

 それは、お互いが生きていて、お互いの『今』が重なり続けているからに他ならない。

 だが、もしもその相手が亡くなったとしたらどうだろう? そうしたら、縦に重なり続けていた『今』は、一挙に横並びになって、相手に対して最先端の『今』だけの感情ではなく、思い出の過去の感情も同列に感じられるようにならないだろうか? 

――と、私の戯れ言はここまでにして……。

 すなわち〈今私〉という存在は私が「生きている証」に他ならないのだ。

◇   ◇   ◇

 本書では、〈私〉というものが「いまここに現にひとりだけ特殊な形で存在している、私の特別なあり方」と説明されている。

 この特別さは、本書を読んで誰かに「私もあなたも皆「特別なあり方をした私」なんだよ!」と伝えたとたん、すくいあげると消えてしまう水中の泡と同じように消滅してしまう。

 この「あたりまえ」ではない不思議な〈私〉の存在を、本書でぜひ体験してみてほしい。

永井均、森岡正博著『〈私〉をめぐる対決――独在性を哲学する』(装幀:北尾崇氏)
永井均、森岡正博著『〈私〉をめぐる対決――独在性を哲学する』(装幀:北尾崇氏)

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