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死刑制度にあらがった教誨師が明治時代にいた! 『死刑すべからく廃すべし』

教誨師・田中一雄が勤務していた東京監獄跡に建つ刑死者慰霊塔。現在跡地は公園になっている(平凡社編集部撮影)
教誨師・田中一雄が勤務していた東京監獄跡に建つ刑死者慰霊塔。現在跡地は公園になっている(平凡社編集部撮影)

2023年4月19日刊、田中伸尚著『死刑すべからく廃すべし――114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄』(平凡社)
2023年4月19日刊、田中伸尚著『死刑すべからく廃すべし――114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄』(平凡社)

極悪人も「新しい生」を生きられる可能性があるはずだ──

 2018年が暮れゆく12月下旬のある日の午後だった。わたしは明治の「大逆事件」の再審請求で主任弁護人をつとめた弁護士森長英三郎(1906―83)の大量の裁判資料、蔵書、書簡などを所蔵している法政大学ボアソナード記念現代法研究所(東京・市ヶ谷)の「森長文庫」で、思いがけず希少な記録『故田中一雄手記 死刑囚の記録』に出会った。長く探し求めていた手記の原本だった。

 当時わたしは、森長の評伝執筆で各地を歩くかたわら、週に3回ほど「森長文庫」に通っていた。森長は読書家で、稀覯本もかなり蒐集していたことは遺族から耳にしていたが、田中一雄の手記は公刊書ではなかったので、森長が所蔵していたとは想像していなかった。

 『死刑囚の記録』は黒の厚紙の表紙で、B5判の袋綴じ、上・下2冊の冊子で、「上」が102丁、「下」が110丁、合わせて212丁、約430頁の長大な手記である。手に取るとちょっとした重量感があった。本文は和紙に謄写印刷(ガリ版印刷)で、印刷部数もごくわずかであることはすぐに想像できた。わたしはやや心をときめかせながら「上」の表紙をめくると、見返しのところに手札ほどの大きさの印刷会社のメモ用紙が貼られてあるのが目に留まった。そこには黒のボールペンで森長の特徴あるやわらかな文字で5行に分けてこう記されてあった。

田中一雄 M23~T1・12・9 鍛冶橋監獄時代より東京監獄へかけての教誨師 途中真宗に入る

 1890(明治23)年から1912(大正元)年12月9日まで鍛冶橋監獄と東京監獄で教誨師をつとめた田中一雄のごく簡単な略歴であった。メモの末尾には「途中真宗に入る」と、田中が浄土真宗の僧侶だったことも付け加えられていた。『死刑囚の記録』にはふつうの出版物にある奥付がなく、田中のプロフィールはどこにも書かれていなかったから、森長は別の資料を調べて田中の教誨師歴と宗教上の足跡を知ってメモしたのだろう。

 森長はいつ、どこで田中の手記を入手したのだろうか。森長の蔵書類を寄贈した遺族に確認してみたがわからなかった。田中は「大逆事件」死刑囚の教誨もしており、1961年1月に「大逆事件」のただ一人の生存者の坂本清馬と刑死した森近運平の妹が起こした再審請求の主任弁護人となった森長は、その際に『死刑囚の記録』の存在を知って手に入れたのだろうか。日本が中国侵略を全面的に展開した日中戦争の前年の1936(昭和11)年に弁護士になった森長は、その当時から死刑制度に関心を抱いていたようで、貴重な手記に惹かれ、田中に興味を抱いたのか。そのいずれかわからないが、弁護士列伝など法曹史関係の著作の多かった森長は田中一雄に注目して、あるいは書こうとしていたのかもしれない。森長の書き残したわずか数行のメモと上・下合わせて430頁近い浩瀚な手記記録をくりながら、わたしは現代法研究所の高い天井、広い閲覧室で森長の胸中に思いをめぐらせた。

 田中一雄は二つの監獄で約200人もの死刑囚の教誨にたずさわった。『死刑囚の記録』には、このうち旧刑法(1882年施行)と新刑法(1908年施行の現刑法)の二つの時代にまたがる1900年から退職するまでの12年間に担当した100人を超える死刑囚一人ひとりの生と死が、濃淡はあるもののさまざまな角度から記されてある。

 死刑囚個人の姓名、身分(平民など当時の族称)のほか、生年や出生地、親の職業や暮らし、育った環境、教育の程度、仕事、性格、宗教意識や信仰心、身体の強弱、飲酒や賭博の習慣の有無、犯罪の内容と動機、自己の犯罪をどう感じているか、獄中での言動、教誨への対応、死刑執行前の心理状態、遺言、さらに田中の教誨感想や死刑の是非などが書きこまれている。現在でもほとんど知られない、死を突きつけられた死刑囚の様子などを書き記した教誨師の手記はそれ自体が貴重で、それが100人以上にも上るのだから、行刑史上でも他に類がない。だがそれだけではない。

 個々の死刑囚や死刑執行についての心情を語る以上、国家のメタファーとしての死刑制度に触れることは避けられない。田中が教誨師をしていた当時、監獄教誨をほぼ独占していた浄土真宗の死刑囚教誨は教育勅語にもとづく国民道徳を説き、極悪人の心を落ち着かせて死を受け容れさせる「安心就死」であった。田中一雄はだが、「安心就死」に距離を取った。異端だった。極悪人と断罪され、肉親などからも見放され、寄る辺なき身となった一人ひとりの死刑囚の生い立ちや家族環境や教育程度などに目を凝らし、なぜ非道な犯罪に至ったのかに迫り、ときに共感的な眼差しを向け、死刑はやむを得ないのかと心を働かせる。そこから一歩踏みこんで、時間をかけ、丁寧に教誨すれば極悪人も「新しい生」を生きられる可能性があるはずだ――。手記には田中のそんな熱い想いが脈打っている。

 死刑制度はだが、当然にも田中の思いの前に立ちはだかる。「新しい生」の可能性を奪う、のっぴきならない絶対的な制度に田中は悲憤し、苛立つ。仏教者として仏の大きな慈悲を説きながら絞首台に送らねばならない矛盾にも煩悶する。手記は、微動もしない死刑制度に苦悶し、格闘した一人の教誨師の時代を超えた記録である。

 田中一雄はこれほど厖大な死刑囚についての手記を、なぜ、どんな思いで書き綴ったのか。制度の前では展望なき「新しい生」の道があるとなぜ思ったのだろう。手記は死刑囚一人ひとりの生と死に教誨師として伴走し、寄り添った記録だが、個別の死刑囚について書かれており、同時代にそれが公になれば被害者の遺族や周辺の感情を強く刺激する可能性があった。死刑囚を安らかに死に就かせることを目ざす国家との緊張関係を招く恐れ、危うさもあった。それでも田中は手記を綴り、遺した。手記はいつ、どのようにして現在に伝えられたのか。

 田中一雄は出自や生い立ちがつまびらかではない。写真は未発見で、顔貌や姿形も知れない。わたしは、稀有の手記と謎に包まれた教誨師田中一雄を探るように追った。

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