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幸徳秋水「兆民先生」「兆民先生行状記」 政府を恐れさせた「言葉」

こうとく・しゅうすい(1871~1911)。思想家

平田オリザが読む

 幸徳秋水の生誕地、土佐中村(現在の四万十市)を訪れた際、地元の方に幸徳の墓を案内していただいた。戦前、この墓は鉄格子で囲われていたそうだ。それでも中村の人々は、この墓をひっそりと守ってきた。

 幸徳は十七歳で上京後、同郷の中江兆民に師事。兆民亡き後は社会主義運動に傾倒する。
 彼は大逆事件で非業の死を遂げた運動家としての印象が強いが、文才も広く知られていた。足尾鉱毒事件で田中正造が天皇に直訴したときの書状も、幸徳が起草したと言われている。

 『兆民先生』は中江兆民の死の翌年に発表された短い伝記。『行状記』の方は、より随筆風に兆民の日常を描いている。

 どちらも圧倒的な師への愛と尊敬に支えられた美文で、日本文学史の位置付けで語るなら、古文調で書かれた最後の名文といっても過言ではない。

 大逆事件における幸徳の死は、日本文学史上、大きな意味を持つ。彼はジャーナリストとして明治末の文筆の世界でも一目置かれる存在であった。その幸徳が半ば冤罪(えんざい)のような形で死刑となる。その衝撃は大きかった。

 だが問題は、そのような歴史的事実に止(とど)まらない。死刑を宣告された二十四名(十二名は後に減刑)のうち、実際に天皇暗殺計画に加わったのは四名のみだ。他は皆、ただ思想信条を言葉にしたに過ぎない。「私は天皇を殺したいほど憎む」と言っただけで死刑になる時代が来た。

 この連載で見てきたように、明治の文人たちは国民国家形成の一助として、言文一致、新しい文学の創生を希求し、それに命をかけた。それはとりもなおさず人々が、自分の思いを、気持ちを、そのまま言葉にできるようになったということだ。

 そして、その近代の言葉が成立した瞬間から、政府は、「言葉」を恐れ始める。昨年のあいちトリエンナーレで、ただ椅子に座っている少女の像に、政治家たちが恐れおののき右往左往したように。そして明治政府は、このときから、言葉を奪う側に回る。=朝日新聞2020年3月21日掲載