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埋没しているのは誰か? 高井ゆと里さんが読む『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』

記事:明石書店

『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)
『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)

トランスジェンダーふたりの往復書簡

 五月あかりさんと周司あきらさんの共著『埋没した世界――トランスジェンダーふたりの往復書簡』は、著者のふたりが2022年の春から夏にかけてオンラインで交わした手紙を書籍化したものである。とはいえこの手紙は、第三者に読まれるために書かれたものでも、ましてや書籍として世に出されることを想定したものでもない。この手紙は、いくつかの偶然と、出版への強い熱意をもった何人かの後押しを受けて、こうして世に出た。

 しかしそうした背景もあり、この往復書簡の内容は、ふたりの生まれ育った家庭のことから、職場でのやりとり、医学的な性別移行の経験、そして恋愛をめぐる複雑な思いにいたるまで、徹底的に個人的な内容で満ちている。

 ただし、注意して欲しい。この往復書簡は、ただの回想録やエッセイではない。読者である私たちをまごつかせるほどまでに互いの私秘的な経験を掘り下げていくふたりは、そうして次第に、「性別」とはそもそもいったい何なのか?という、巨大で政治的な問いを表舞台に引きずり出していく。概念をねじり上げるように。誰も言葉にしたことのない世界を、言葉を尽くして暴いていく。だからこそこの往復書簡には、悪魔的な魅力がある。

トランスジェンダーと埋没

 本書のタイトルは『埋没した世界』である。「埋没」というのは、トランスジェンダー当事者にとってはなじみ深い概念である。それは、生まれたときに「この性別を生きなさい」と命じられた性別とは異なる性別の人間として、ほとんど誰にも自分の過去を知られることなく社会生活を送る、そのような人びとの存在様態を指す。

 トランスジェンダーによる「埋没」の経験を理解するための一側面として、自身の性別をことさら意識せずに済む、ということを挙げることができる。

 トランスの人びとは、割り当てられた性別の人間として生きることへの不合感を、ときに身体への違和を伴いつつ、経験する。性別移行がある程度すすみ、移行後の性別で認識される機会(これを「パスする」という)が増えたとしても、パス度(どれくらい自然に、女性/男性に見えるか)を気にかけたり、自分の過去を隠すための様々な工夫を恒常的に強いられたりするのなら、「埋没」からは遠い。その段階ではまだ、その人は、自分がどのような性別として周囲から見なされているのかとか、周りの人間のうち、誰が自分がトランスジェンダーである事実を知っているのか、といったことを絶えず意識させられ続けることになる。

 他方、性別移行が完全に進み、自身のアイデンティティと身体との統合を経て、社会的にも「埋没」するようになれば、そうではないはずの性別として周囲から認識されたり、過去の隠ぺいのために気をもんだりする機会はなくなる。つまり、それ以前に感じていたような性別についての違和や不適合感を抱く機会は消滅する。このことは、自分がどのような性別として認識されているのかとか、どのような性別の人間として存在したりしているのかについて、当事者がことさら意識する必要がなくなるということを意味する。

埋没しているのは誰か?

 著者のふたりは、かなり「埋没」の状態に近い。五月あかりさんは「女性」として、周司あきらさんは「男性」として、誰からもその状態を疑われることなく生きている。首都圏の満員電車で、駅ビルのアパレルショップで、スポーツジムや温泉旅館で、そしてもしかするとあなたの会社のオフィスで。あなたはふたりとすれ違っているかもしれない。しかしあなたは間違いなく、ふたりがトランスジェンダーであることに気づきもしない。『埋没した世界』という本書のタイトルは、ひとつにはそれゆえ、移行後の性別で「埋没」しているトランスジェンダーから見えている世界、という意味になるだろう。

 しかし、少し考えればわかるはずだ。「埋没」しているのはいったい誰か。

 「女性」や「男性」として、誰からもその性別を疑われることのない人びと。その性別を生きているという社会的事実そのものに違和感を覚えない人びと。ことさら自分の性別を意識することなく、「女性」や「男性」として、今日も生きている人びと。―――そう。なによりも「埋没した世界」を生きているのは、トランスジェンダーでない、シスジェンダーの人びとなのである。

 ここで、本書のタイトルは反転する。『埋没した世界』は、自分たちの性別を疑われることも、疑うこともなく、それゆえ「性別」について解像度が粗いままの認識を保持しているシスジェンダーたちの生きる世界を、地面の中から掘り返していく。

 五月あかりさんは語る。トランスジェンダーでよかったことは?――性別というものについて、人よりもはるかに高い解像度で考えられること。トランスジェンダーゆえのコンプレックスは?――性別というものについて、物心ついたときから、いつまでもいつまでも考え続けなければならないこと(『埋没した世界』:「あかりより(6)――想像の限界」)。トランスジェンダーであるふたりは、世の中が期待する通りには「性別」を生きることができなかった。しかしだからこそ、ふたりには世の中のほとんど誰にも見えていない世界が見えている。「性別」というものについて考えることをさぼってきた、シスの人びとを主人公としたままの世界を、ふたりは地中深くから掘り出し、白日の下にさらす。

 それゆえ、トランスジェンダーであろうと、シスジェンダーであろうと、あなたが『埋没した世界』と無関係でいることはできない。周司あきらさんは、本書の公刊に際して次のように語っていた。

疑問は溢れ出て止まらなくなる。人々は、いったい何をしているのだろう?トランスジェンダーは「問われるべき存在」に留まらない。道連れになるのは、この「埋没した世界」そのものだ。一旦、浮上させてみたかった。この世界を。この不条理を。なぜ自分だけ逃れていられると知らんぷりしていられるのだろう。聞いてみたかったんだ、ずっと。(「トランスジェンダーを知ろうとしても、『埋没した世界』は誰も逃さない。」

もし、『埋没した世界』を読んで「トランスジェンダー当事者の声を聞こう」と思っているのなら、あなたのその期待は裏切られるだろう。現代社会を生きる私たちは、誰も「性別」から逃れることができない。そして、ふたりがその「性別」なるものについて容赦なく疑問を投げかけ、ときに「シスジェンダー」と「トランスジェンダー」の境界線をすら動かそうとする以上、もはや誰も、ふたりの言葉を他人ごととして読むことはできない。

 だから、繰り返す。「トランスジェンダー当事者の声を聞こう」といった生ぬるい態度で『埋没した世界』を読むことはできない。そしてなにより、ふたりが求めているのは、あなたが「耳を傾けること」ではない。あなたが「語ること」だ。

だからこそ、あなたの言葉も聞いてみたい。(…)ずっと聞いてみたかった。世界がどうなっているのか。あなたは、性別をどう思う?「好き」って何?この世界を変だと思ったことがある?顕微鏡で覗いてみたい。解像度を上げてみてほしい。これは一体何なんだ?ねえ、答えてよ。答えられないのだとしたら、なぜあなたは今の今までそのまま継続して人生をやってこれたの。それとも、終わらせるのに失敗したから生きている?ねえ、何なんだよこれ。(「トランスジェンダーを知ろうとしても、『埋没した世界』は誰も逃さない。」

なにが起きているのか?

 この文章を書いているわたし(高井ゆと里)は、昨年『トランスジェンダー問題』という本を翻訳した。『埋没した世界』と同じ、明石書店からの出版である。真っ赤な表紙を覚えている方も多いだろう。ありがたいことに、多くの人に読まれている。

 『トランスジェンダー問題』という著作は、トランスの人びとが巻き込まれている法的・制度的・文化的な「問題」を政治的に分析し、それらを資本主義や国家による暴力、多様なマイノリティの健康を損なう医療制度、セックスワーカーの可傷性を生み出す社会構造、そして性差別や人種主義の問題へと、ひろく接続していくものである。こうした議論は、トランス当事者の個人的な経験に敢えてフォーカス「しない」という、著者の断固とした立場設定によって可能となっている。

 『埋没した世界』は、その点で言えば、『トランスジェンダー問題』のスタンスとは真っ向から対立する。日本社会を生きるふたりのトランスジェンダーが奇跡的な出会いを果たし、これまで溜め込んできた様々な感情を――悦び、怒り、憎しみ、諦念、絶望、愛を――堰を切ったように爆発させるこの本には、『トランスジェンダー問題』という本を読みにくくしていたかもしれない、先端的な理論や馴染みのない概念は、登場しない。

 しかし、だからこそ『埋没した世界』は、依然として日本語で誰も与えてくれなかった言葉を、私たちに与えてくれる。そして、「そもそも『性別を生きる』とはどういうことなのか」という、『トランスジェンダー問題』が素通りしていった巨大な問いと向き合うよう、私たちの思考の向きを変える。

 五月あかりさんは、かつて「男子」になることを決めたとき、一生懸命に自分の身体を「大きく」見せようと無理をしていたという。それに、周司あきらさんは応える。なにも無理せず「自然体で」あることが、「男性」であることではないか。あきらさんにとって、「女子」であることはコルセットでぎゅうぎゅうに身体を締め上げられるような経験だったのだ。あかりさんが再応答する。そんなはずはない。わたしは「女性」になって、周りの人に助けを求めたり、周りの人を助けたりできるようになった。自分は、失われていた「自然な」身体のありかたを取り戻したのだ、と。

 ふたりのどちらが正しいのだろうか。おそらく、どちらも正しいのだろう。では、改めて問われるべきである。私たちはどうして、性差の違いをこれほどまでに重視し、許される身体のかたちや、使い方についてまで、厳しく規制しようとするのだろうか。

 次の例を挙げよう。現在の教科書的な理解では、トランスジェンダーとは「割り当てられた性別と性同一性が食い違う人びと」を指す。しかし、五月あかりさんも、周司あきらさんも、そうした定義的な説明にまったく満足していない。「性同一性」が「男性/女性」だから、「男性/女性」へと性別を移行した―――。そのような単純化された説明は、自分たちのリアルを反映していない。あるいは少なくとも、そのような説明では汲みつくせないトランスとしての生存が、ここにある。

 そこからふたりは、予想だにしない方向へと議論を展開させていく。詳しくは『埋没した世界』の第4章~第5章を参照して欲しい。読者はそこで、「トランスジェンダー」と「シスジェンダー」が、いずれも「解体」される現場を目撃することになるだろう。

 トランスジェンダーは生身の人間である。病気にもなるし、貧困にも悩まされる。職場も変わるし、恋をすることもある。だからこそ、性別を変えるという、ふたりがトランスジェンダーとして経験した尋常ではないその経験を、簡単に理解することはできない。『埋没した世界』の全編を通して語られることだが、あかりさんがAセクシュアルで、性嫌悪があり、貧しい家に生まれ、病にも悩まされてきたこと。そしてあきらさんがポリアモリーで、パンセクシュアルであり、(たびたびの転職を含めて)根っからの「渡り鳥」であること。これらのことは、ふたりのトランスジェンダーとしての生きざまに深く根を下ろしている。読者である私たちは、ふたりの性別移行を駆動した、その復讐と愛の情念の大きさに圧倒されるだろう。そして、「性同一性が男性/女性だったから、その人は男性/女性に性別を変えたのだ」といった、安易な説明をトランスたちに強いてきた社会の怠慢を恥じるだろう。

 ここに触れたトピックは、22往復(合計45通)も交わされたふたりの往復書簡に登場する、無数の話題のいくつかに過ぎない。ぜひ、『埋没した世界』を読んで欲しい。そして、いったい何が起きているのか。その目で、耳で、確認してほしい。ふたりの物語が、あなたを「埋没した世界」から引きずり出してくれることだろう。さあ、次はあなたが語る番だ。

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