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学生運動と年上の友人たち:私の謎 柄谷行人回想録④

1960年6月、国会前を埋め尽くすデモ隊
1960年6月、国会前を埋め尽くすデモ隊

――1960年、私立甲陽学院高校を卒業し、東京大学文科一類に入学します。岸信介内閣による日米安全保障条約改定に反対の波が広がっていた60年安保闘争のさなかですね。

柄谷 受験前の59年秋、国会へのデモに参加した学生運動の幹部に逮捕状が出て、彼らが東大駒場に籠城するという事件がありました。それが連日大々的に報道された。その後、デモが広がり、入試期間中も続いていました。僕は入学式よりもそのことが気になっていたから、入学式より前に、東大生のデモに参加した。国会前です。4月7日くらいだったかな。そこで、西部邁の演説を聞いた。結局、入学式には行かなかった。

《5月19日に政府が強行採決すると、26日のデモには17万人が参加。6月15日には全学連が国会に入り、機動隊の強制排除で多数の重軽傷者、逮捕者が出た。このときに東大生の樺美智子さんが亡くなり、18日には学生や労働者33万人が国会を取り囲んだとされる》

――後に東大教授などを歴任し、保守派の評論家としても活躍する西部邁さんですね。当時は東大教養学部の自治会委員長で、共産主義者同盟(ブント)に所属し、全学連の中央委員でもあった。

柄谷 僕の記憶では、5月19日の強行採決の後、組合の労働者などがいっぱい集まっている場所で西部が演説したんですよ。負けた日に何を喋るんだろうと思っていた。そうしたら、すごかった。みんな感動して泣いていたんだ。西部は負けたんだということを話しているのに、集まった人たちは「次からはもっとやる」という感じになっちゃうんですね。そういう浪花節が巧まずにできちゃうの、彼は。まだ面識もなかったけど、驚いたね。あんな演説は二度とないだろうね。

三鷹で発見した日本近代文学の「風景」

――入学してすぐにブントに加入したんですか。

柄谷 僕は正式にブントに入ったことはないんですよ。もともとは58年に共産党から出た人たちが作った組織ですから、最初は共産党入党と類似するような手続きがあったと聞いたことがあります。だけど、僕は一度もそんなことをしていない。もしそうしなければならないとしたら、入らなかったと思います。僕はたんに、デモに行っただけですから。
第一に、僕は入学後、駒場キャンパスにあった寮に入らなかった。かわりに、三鷹にあった寮に入ったのです。入学試験のときに駒場寮も見にいったけど、汚かった(笑)。実際には、一番汚くするのは僕なんですが、このとき、なぜか気が進まなかった。それで、三鷹市下連雀にできた新しい寮に入ることにしたのです。そこに半年いて、その後、駒場寮に移った。
しかし、その後の僕にとって大きかったのは、短い期間、三鷹寮にいたときの体験です。それは、いま僕が住んでいる多摩丘陵のようなところでね。つまり、「田舎」でした。当時、寮の近所にあった商店のおばさんに、「あんたの田舎はどこ?」と聞かれて、こっちは阪神間から来てるから、「ここのほうがよっぽど田舎だろう」と思ったけど、そのあとすぐ「郷里」という意味だと気付いた(笑)。
当時の三鷹は、国木田独歩がいう〈武蔵野〉でした。後になって『日本近代文学の起源』で書いたような〈風景〉がそこにあったんですよ。

《「風景の発見」は、明治期の日本で、ありふれた田舎の林や平凡な人間を描写する=発見することで、外界と内面、主観と客観が生まれ「文学」が成立したという転倒を指摘し、認識のあり方がそれ以前と決定的に違っていったことを論じた》

国木田独歩の『武蔵野』(1901年)は独歩が住んでいた「渋谷村」が舞台で、明治30年前後には林があって家が少ししかないような地域です。大学に入ってから『武蔵野』に出てくる渋谷の道玄坂に行ってみたら、ストリップ小屋があって驚いた(笑)

――日本近代文学を生んだ〈風景〉は、渋谷にはもうなく、三鷹には辛うじて残っていた。

柄谷 そうです。大学時代、〈風景〉の意味を感じ取る時期にそのなかにいたということ、のみならず、コロナ禍の今も、そのような〈風景〉のなかを歩き回っているということ。奇妙なものだね。だから、ふりかえると、三鷹での生活は、自分にとって重要なことだったと思います。

――入学直後の大学はどんな様子でしたか?

柄谷 駒場の学生運動は、デモに行くのも教室で全部討議してクラスで決めて、それを上げていって駒場全体の方針として決定する。これは、その後残っていないような学生運動の形態ですね。
ところで、ブント(共産主義者同盟)は安保闘争で敗北したあと、7月に諸派に分解してしまいました。簡単にいうと、後の中核派、革マル派になっていく流れ、そして、東大や京大に残った旧ブントです。このとき、それらに対して、中立的な立場を取ったのが東大駒場のグループです。だから、駒場の動向が各派にとって大事だった。そして、そこに私が移った。

篠田英美撮影
篠田英美撮影

学生運動と苦手な演説

――駒場寮に移ったきっかけは?

柄谷 これも自分にとって謎です。10月くらいに移ったんだけど、本郷のブントの幹部、坂野潤治(後に東大教授、歴史学)とか河宮信郎(後に中京大教授、環境科学・科学技術論)に、ぜひ駒場寮に行ってくれと頼まれたから、そうしたのです。彼らは、安保闘争以後のブント再建のために動いていた。だけど、なぜ僕だったのか、今でもわからない。僕は何もしていなかったんだから。アジ演説はおろか、そもそも演説が出来ない。それはいまも同じですが。

――中学の入学式以来の「赤面恐怖」でしょうか。

柄谷 それもあるけど、僕はアジ演説ができない。普通に話すこともできないけど。そのそも、僕は学生運動に参加しながら、同年代に話ができる友人がいなかった。話ができると思ったのは、自分より年上の人たちだけです。僕を駒場寮に行くように誘ってくれた坂野や河宮のほかに、廣松渉(後に東大教授、哲学)とも親しくなった。それに、加藤尚武(哲学者)も。
しかし、どうしてそうなったのか、わからない。たとえば、加藤さんは、日比谷高校時代からドイツ語でヘーゲルを読んでいたような秀才ですが、なぜ彼が18歳の僕に一目置いてくれたのか、わからない。僕は何もしていなかったから。たぶん彼らのうちで、誰かが、柄谷はいいぞ、というようなことを言ったとしか思えない。

――駒場寮では、どんな生活でしたか?

取り壊される前の東大駒場寮
取り壊される前の東大駒場寮

柄谷 駒場寮に住んじゃったら、大学の敷地にいるんだから、学校に行くも行かないもない(笑)。半分ぐらいの人は授業には出てないですよ。寮には戦前の落書きがあるくらいで、まだ旧制の雰囲気が残っていた。いまの学生とは違います。
ただ、この時期は、安保闘争が敗北に終わって運動も下火になり、駒場寮は、以前のような活気を無くしていた。デモの動員力も落ちました。しかし、特に本郷の人たちは、駒場の学生運動に期待していた。だから、駒場寮を重視したんですね。その中で、社研(社会科学研究会)と歴研(歴史研究会)の部屋が中心で、いわばブント系の事務所になっていました。僕は安保闘争が終ったあと、10月に社研の部屋に移ったのです。
それで一応、僕が駒場社学同の代表者みたいなものとなった。だから、そこには、本郷だけでなく、京大や早稲田からも人が訪ねてきました。しかし、どうして、こういうことになったのか、わからない。たとえば、廣松さんは朝から来るんだよ。「柄谷くん」とかいってね。朝といっても、10時くらいだけどね。でも、こっちは寝てるわけ。それで追い返したりして(笑)。

――若き廣松渉を追い返す大学1年の柄谷行人……すごい光景ですね。

柄谷 彼は8歳くらい僕より年上で、まだ大学院生だったと思う。ずっと後に、奥さんから聞きましたが、話のわかるやつだと妙に僕のことを信用していたらしい。

廣松渉、西部邁……初めて対話が出来た東大駒場寮の日々

――高校までは知的な話ができる友達がいなかった、と。大学では後に名だたる学者になるような人たちに出会ったわけですが。

柄谷 そんなインテリの会話をした覚えがないよ(笑)。ただ、年上の連中に会って初めて、文学や哲学の話ができるようになったのは確かですね。高校までは、話せる相手がいなかったし、わざわざ探すこともしなかった。向こうから来るのを待つという感じでした。そうしたら本当に出会った。ただ、その人たちは皆、僕より年上だった、ということです。
たとえば、西部邁がそうです。彼は全学連のリーダーだったし、僕が対等な口を利ける人ではなかったはずですが、安保闘争のあと、仲良くなった。彼は裁判中で自由に動けないという感じで、駒場に来たら僕と会うのが楽しみだったんでしょうね。先輩、後輩という関係でもなかった。当時の彼はすでに地元の北海道の同級生と結婚していて、ときどき家に呼ばれた。西部とはその後も長いつきあいになりました。彼が保守派のイデオローグとして知られるようになってからも、僕には好意を持ってくれていた。右だ、左だということに縛られていると、わからないでしょうね。

1985年、東大助教授時代の西部邁さん
1985年、東大助教授時代の西部邁さん

――学生のころから親密なつきあいがあったんですね。

柄谷 そうですね。今思い出したことがある。彼の奥さんは、とある乳製品の会社で働いて、裁判中の西部を養っていたんだけど、彼女が僕にテレビコマーシャルのモデルにならないかって言ったことがあった。どういうことをするのか聞いたら、「神宮球場かなんかを歩いて、一杯牛乳を飲むとか、そういう映像でいい」とか言ってたけど。一応、断りました。

――かっこよかったんでしょう。

柄谷 それはわからないけど、とにかく、いいって言うんですよ。吉本隆明の奥さんにも、テレビに出てる誰それに似てる、と言われたことがあった。そういうふうに見えた時期があったんだろうか。

――柄谷さんは、61年に社会主義学生同盟(社学同)再建に関わったとお話されています(『政治と思想 1960-2011』平凡社ライブラリー)。

柄谷 60年安保闘争当時の資料なんかで見ると、「無名の一学生」として発言している僕が出てくるらしい。当時は、ブント(共産主義者同盟)が党であり、その下部の学生組織として社学同があると考えられていた。つまり、ブントは、労働者階級の党であり、社学同はその下にある、と。
しかし、僕が考える社学同は、そういうものではなかった。そもそも、人間は学ぼうという気持ちがあれば、みんな「学生」であると思う。労働者も「学生」となりうる。どこかの学校に籍があるかどうかは関係ない。そもそも教師も学生である。1961年に、駒場で社学同を結成した時、僕の念頭にあったのは、一種の連合体(アソシエーション)の形成です。今思えば、後のNAM(ニュー・アソシエーショニスト運動)の発想がすでにそこにあったのです。だから、僕はブントの再建には否定的でした。しかし、その後、社学同が形成されると、それは、ブント再建派(東大本郷・京都大)に握られてしまった。だから、僕は、その秋には、社学同の運動から降りました。

――挫折感はありましたか?

柄谷 運動が挫折したことは確かですが、挫折感というようなものはありません。もともと、他の人と考えていることが違っていたから。しかし、その時点では、自分の考えは、まだ明確ではなかった。
今からふりかえると、60年代には、この時期にあった二つの傾向が前面化したと思います。一つは、連合赤軍事件に集約されるような、急進的な学生運動です。もう一つは、マルクス主義への批判です。たとえば、60年安保の後、それまで全学連と共闘した清水幾太郎のような知識人が、以後マルクス主義批判を始めた。西部邁もマルクス主義を斥けるようになった。だけど、僕は以後、むしろマルクスを真剣に読むようになったのです。「マルクス主義」ではなく、「マルクス」を。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、大学時代に宇野派経済学を通じて出会ったマルクスについての話。月1回更新予定)

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