情報科学で音楽学と心理学を仲介する
記事:春秋社
記事:春秋社
「音楽を研究する」——そう一口でいっても、世の中にはさまざまな「音楽の研究」が存在しています。音楽のどんな側面を、どうやって、どういう目的で、どういう用語を使って探究するのかは研究者によって異なりますし、その研究者が活動範囲としている学問分野・領域に左右されます。分野ごとに、かなりタイプの違う音楽研究が行われている現状です。
では、そんな音楽研究のさまざまな分野がそれぞれ独立していて、まったく交流がないのかというと、そうでもありません。音楽の研究者たちは、複数の分野の交流や軋轢の中で、音楽についての知を形成し、蓄積してきました。
『音楽と心の科学史——音楽学と心理学が交差するとき』(西田紘子・小寺未知留編、春秋社)という本では、まさにその交流や軋轢に焦点を当てています。科学史の知見を参照しながら、歴史上のいくつかの事例をピックアップすることで、音楽学(特に音楽理論・音楽美学)と心理学が交差する中で研究者たちがどのように音楽に向き合ってきたのかが描き出されています。
異なる分野の研究者たちが出会ったときには、それぞれが普段は「当たり前だ」と思っている知識も、ちゃんと言葉にして伝える必要が生じます。つまり、異なる分野の交差には、それぞれにとっての基本的な考え方が言語化されるきっかけが潜んでいるのです。
このエッセイでは、交差を示す一例として、本書にコラム③「音楽の心理学と情報科学」を寄せていただいた森本智志さんにお話を伺いました。
───────────────────────────────────────────
編者:森本さんの専門分野はなんでしょうか?
森本:計算論的神経科学と呼ばれる分野です。その中でも知覚・認知心理科学に近い領域を扱っています。私の場合は、いわゆる情報科学系の研究科の中の、脳科学関連の研究所と連携している研究室で心理的な問題に取り組んでいました。
編者:これまで学習・研究されてきた環境がそもそも学際的なんですね。ご自身の分野や領域、特に超・間・多領域性などについてどのように感じていますか?
森本:私の経歴をもう少し詳しく説明すると、二つの大学院に通ったことがあって、一つ目の大学院では情報系の研究室に、二つ目の大学院では聴覚の実験心理系の研究室に所属していました。私自身は作曲もするので、一つ目の大学院にいたころに温めていた音楽に関する研究テーマを、二つ目の大学院で実際に始めたかたちです。直接音楽を扱う研究室ではありませんでしたが、リズム知覚のような音楽的要素は扱っていたので、音楽に関する話題は比較的スムーズに議論できました。逆に、情報科学的な分析手法については、理解を得るために丁寧に説明する必要がありました。心理系でも音楽系でも情報系でも、それぞれの分野の前提知識を、物理現象や理論的枠組みに基づいて順を追って説明すれば、一緒に議論するための土台は共有できるように感じます。
苦労もありますが、いろいろな分野の人と議論することで得られる研究上のメリットも大きいと思っています。例えば、音楽の調についてです。従来の音楽心理学の実験は調の存在を前提として行われたものが少なくないのですが、実験心理系の研究室では調すらも存在を疑うという姿勢を学びました。私の研究では、調が成立するかわからないような和音進行も含めて心理実験を実施した上で、(和音進行において調が成立しているかどうかにかかわらず)実験参加者の心理評価には調と呼べそうなものが作用していたことを示しました。このような観点から研究ができたのは、多領域の人と接するなかでさまざまな考え方を知ったからです。
編者:さまざまな分野の音楽研究者がお互いの研究のことを知る機会はまだまだ少ないように思います。
森本:所属している学部などが違っているので、そもそもいる場所が違いますよね。組織的にも融合を試みて、拠点のようなものを作っていかないと難しいのかもしれません。相手の流儀や作法を尊重しながら、積極的に互いを理解しようという姿勢で交流できる環境が必要だと思います。
一方で、数理的な理論の枠組みを提供できる情報科学は、心理学のような実験科学と音楽学のような人文系の学問を仲介できるのではとも思います。情報科学では、音楽理論における調は、直接的に観測できない隠れた状態として表現できます。観測できるのは和音やその進行で、それらは調によって変化します。これを隠れマルコフモデル——隠れた状態がどのように推移していくのか、また隠れた状態と観測できるものがどのように関係しているのかを確率で表すモデル——に当てはめると、音楽データから調を自動で判定することができます。先ほども触れた私の研究では、和音進行に対する心理評価実験を行い、情報理論をもとにいくつか候補となる心理モデルを立てて検証しました。その結果、調を推定する隠れマルコフモデルに相当する心理モデルが実験データを一番うまく説明できました。
編者:本書に携わってどのような感想をもたれたでしょうか?
森本:人文学とは全く異なる分野で音楽を研究してきたので、今回はすごく勉強になったと感じています。人文学を通して歴史に触れることで、得られるヒントもあるように思います。例えば、本書第二章の「タクト」*という概念は、音楽知覚の情報処理モデルにも示唆をあたえるものとして大変興味深かったです。
*第二章「心理学によって音楽の起源を説明する試み」(小川将也著)では、音楽用語である「タクト」が心理学的概念に読み替えられていく過程が論じられています。
編者:最後に、学生層の読者に対して、何かメッセージをいただけるでしょうか。
森本:それぞれの分野でそれぞれの研究をすることが当たり前になっていますが、他分野のものに触れる機会は必要で、アンテナは高く張っておくのがいいと思います。人文学の方にとって情報科学は敷居が高く感じられるかもしれませんが、そこにもぜひ手を伸ばしてほしいです。特に音楽情報学は言葉こそ違いますが対象は同じ音楽なので、交わるところもあるはずです。そういう機会をもっと作っていくと、相互理解が進んで、次の世代にはより融合的な研究環境が実現できるのではないかと思います。
編者:本日は誠にありがとうございました。