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日米戦死者3418人を突き止め、その声を拾い上げた圧巻の記録。澤地久枝著『記録 ミッドウェー海戦』

記事:筑摩書房

日米戦死者3418名。全員の没年齢、所属階級などを突き止め、その功績によって菊池寛賞を受賞した圧巻の一冊
日米戦死者3418名。全員の没年齢、所属階級などを突き止め、その功績によって菊池寛賞を受賞した圧巻の一冊

菓子をほしがる妹には、配給券もないのに交渉して袋一杯のゼリーを買ってくれました

関口加平  二等機関兵曹 没年22歳7カ月 群馬 高小卒 十一志 三男二女の次男

「演習航海中、部下があやまって海に落ちた時、そこがたまたま南方の海蛇などが棲息していた場所のため、誰もこわがって助けにいかないのに、一人で飛び込んでその人を助けあげたそうです。あとで隊から表彰されました。ミッドウェーへたつ直前、四月二十九日頃、最後の補給をしている横須賀へ妹たちをつれて面会に行きました。料理屋で食べきれないほどの御馳走をしてくれ、菓子をほしがる妹には、配給券もないのに交渉して袋一杯のゼリーを買ってくれました。それが最後でした」(母・関口コト・明治三十年生れ)

男の子なら譲、女の子なら純子と子供の名前が書いてあったのです

武居忠夫  一等兵曹 没年27歳7カ月 茨城 八志 昭和15年に結婚 一男と妻 24歳 のち独身

「主人は大工の子で長男です。最後に帰ってきたのは、昭和十七年の五月だったか、最後の一晩だけ。とくに変った話もしていないねえ。半月もたたないうちにああいうことになって……。横須賀に住んでいましたが、私はさいしょの子供が妊娠八カ月に入っているときで、翌朝の六時頃主人は赤城へ帰ってゆき、私は実家の父親がむかえにきたのでお産のために田舎へ帰りました。おなじ日です。
 生れてくる子が男の子ならいいなあって言いましたが、こればかりはわかんないからと言いましたよ。それからしばらくたってから主人の手紙が届きました。中にお守りが入っていて、これはなくなさないよう肌身につけておいて、子供が生れたら見るようにと書いてあったのです。私は安産のお守りを送ってくれたものとばかり思い、封は切らずに腹帯の間へ入れていました。
 七月四日に男の子を生んで、封を切ってみたら、男の子なら譲、女の子なら純子と子供の名前が書いてあったのです。戦死の公報はおそくて、九月にきたとき、武居の父親が『俺は今度はダメかも知れない、あとは子供に譲るということだったのか』と言いました。息子の名前は譲です。その父親は二十年十月に六十八歳で亡くなり、母も二十三年七月に亡くなりました。七十二歳でした。主人の弟も昭和十九年二月四日に南太平洋で戦死しています。
 子供をかかえて鳩時計の工場の女工をやったりして生きてきて、いまはリューマチで膝が曲らなくなって不自由なからだです。息子夫婦と孫二人と暮してます。手も不自由なものだから、ちゃんとお返事も書けずにいました」〔六十一年二月一日、妻・武居ふくとの電話。途中から茨城の土地言葉になり、四十年余の生活実感が一度に溢れたが書きとめ得ず、東京言葉に直した〕

脱ぎすてになっている下駄をきちんと揃えていました

関正季 一等機関兵 没年19歳7カ月 福岡 高小卒 十四志 農業 二男一女の末子 兄は昭和20年3月2日ビルマで戦死、姉の夫末松正吾は20年5月5日済州島西方海上で戦死。姉と兄嫁、甥の女子供だけになった

「父は弟(正季)が三歳、母は十七歳の時に亡くなっています。
 弟はみんなに好かれる子供でした。小学校四、五年の頃から、その頃は薪で御飯を炊いていましたので、毎日必ず、夜寝る前に、かまどの前の掃除と、脱ぎすてになっている下駄をきちんと揃えていました。
 私は朝鮮で終戦を迎えましたが、その時は主人も戦死していまして、生れたばかりの子供が一人おりました。幸いに早く引き揚げることが出来、引き揚げ後は主人の家にしばらく厄介になっておりました。けれども主人も長男ではなかったので、長くいることも出来ず、実家へ帰りました。
 でも実家の兄も戦死していて、兄嫁が女手一つで農業をしていたので、しばらく手伝っていました。そのうち近くの製材工場で事務員の勤め口があり、そちらへ子供と二人家を借りて住み、二十年以上勤めました。八年ほど前から町立長原公民館の用務員をしています。正季の生家では兄嫁が農業をしながらすごしています」(姉・関サキ

飛行機に乗る時は必ず母様の写真と一緒に乗って居ります

田口大八 一等飛行兵 没年19歳6カ月 北海道 高小卒 十四志(偵練53) 六男一女の五男

昭和十六年十一月三十日付田口大八の手紙
「母様其の後御元気ですか。大八も相変らず元気に御奉公致して居ります。炭山も寒い事でしょう。充分御体に注意して下さい。雪も降っている事と想います。(略)毎夜出る月又星を仰いでは遠い炭山の母様又兄弟を想い出して居ります。毎日飛行機で高度をとると雲の上に出ます。雲も仲々美しいものです。一等飛行兵に成り写真を撮りました。出来ましたから送ります。変ですが。
 飛行機に乗る時は必ず母様の写真と一緒に乗って居ります。母様を夢で見て居ります。一層御体を大切に致して下さい。大八も大いに勉強致し空の第一線にて活躍する覚悟です。時局は益々切迫致して参りました。第一に海に消えるかも知れません。皇国の為です……」
「大八は沼東尋常高等小学校卒業後海軍へ志願したが不合格となり、三菱美唄炭礦の資材課に勤めた。翌昭和十四年に合格し入団。はじめから飛行機乗りを目ざした。父は鉱夫。幼い頃母親がふざけて『もらい子』だと言ったのを信じ、菓子を食べるのも御飯のおかわりをするのも遠慮がちだった。十歳くらいのとき母親が『お前を生んだのはハシゴの下だ』と言うと『おがさん! 俺生んだのほんとか!』とびっくりした。それからは親に口ごたえもするようになった。運動好きで負けん気の子供。父親は大八が入団した年の十月に死亡した。大八の兄は四人とも従軍、三男孝三郎(海軍)も十八年十二月二十四日『南太平洋』で戦死している」(弟・田口開作
 炭山の合宿で炊事婦として働いた母ハルヱは、昭和五十七年一月訪問時八十七歳、応答できない状態になっていた。

将来は歯科医になりたい、と両親には話していた

ウォルター・W・スワンバーガー
SWANBERGER, Walter Wade
海兵隊少尉 没年22歳1カ月 カリフォルニア大学バークレー校中退 ʼ41年10月22日、予備学生として21歳で入隊 一人息子 未婚

 両親・スワンバーガー夫妻の看護婦からの手紙(ʼ82・6・5)
「お尋ねの夫妻はラグナ・ヒルズの病院にいて、私は九カ月前まで二人の看護をしていました。九十代のご主人は最近、腰の骨を折って治療中です。彼は記憶もしっかりしていて、よく息子さんがミッドウェーで亡くなったことを話していました。八十代の奥様の具合はあまりよくなく、耳と目が不自由です。手遅れにならないうちに接触できることを願っています」
 八二年六月、スワンバーガー夫人が八十六歳で病死、八三年二月、入院中の父・ウォルター・スワンバーガーの談話
「ウォルターはカリフォルニア州オレンジ郡のサンタアナ大学卒業後、カリフォルニア大学で経済学を学んでいたが、中退して海兵隊に志願して入隊。二十一歳だった。将来は歯科医になりたい、と両親には話していた。当時、米国内の青年の間には『平和で民主的な国が他国からの脅威なしに生存できるためには、世界平和が大前提』――との共通認識があり、ウォルターは『世界の自由を守るため』と信じて入隊した。
 戦死当時は、ミッドウェー島の基地に駐留する海兵隊第二二一戦闘機中隊のパイロットで、中隊三十二人のうち生還したのはわずか二人。私たちは息子の死亡日時も死亡の有無すらも確認できていない。
 戦死のニュースはまず、新聞、ラジオで初めて知り、つづいて行方不明と記された簡単な公式電報を受け取っただけです。遺体はとうとう見つからず、のちに中隊の生還した仲間の一人が訪ねてくれたときに、とても生存し得ない状況に巻き込まれたと話してくれたのが唯一の情報です」

澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』(ちくま学芸文庫)書影
澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』(ちくま学芸文庫)書影

『記録 ミッドウェー海戦』目次

第一部 彼らかく生き かく戦えり
第二部 戦死者と家族の声
第三部 戦闘詳報・経過概要(抜粋)
第四部 戦死者名簿
第五部 死者の数値が示すミッドウェー海戦
付録
あとがき
ちくま学芸文庫版あとがき
解説 『記録 ミッドウェー海戦』を想う(戸髙一成)

『記録 ミッドウェー海戦』特設サイト 試し読みや「第二部 戦死者と家族の声」抜粋、「第四部 戦死者名簿」「第五部 死者の数値が示すミッドウェー海戦」からの抜粋資料、「あとがき抜き書き」等がお読みいただけます。

NHK ETV特集「ミッドウェー海戦 3418人の命を悼む」(2023/6/10放送)著者出演

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