戦場体験を語らずに死んでいいのか… 焼却された記録文書 保阪正康『戦場体験者』より
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
戦場での苛酷な記憶を持つ者は、日本に戻ってから生活者として家庭を持ち、日々の安寧の中に身を置くと、その次に必ず「自分の一生はこれでいいのか。あの戦場体験の苛酷な思いを語り継がずに死んでいいのか」と自問自答するようになる。私はこれまで延べにして四千人近くの人に会って、戦争体験を聞いてきた。そのなかで戦場体験を克明に語ってくれた元兵士は五百人ほどでしかないが、彼らは必ず誰かに自らの体験を語って死にたいとの思いを持っていることに気づかされる。
なぜだろうか。私の体験では彼らの心底には、「良心」ともいうべき核があり、どれほど日々の生活の中で抑えていたとしても、あるいは忘却という意識で潜在化させていても、それは老いの日々の中に必ず復元されてくるものだ。戦争などすべきではない、戦場に赴いた兵士はどれだけ生涯にわたって傷つくか、そのことを私は教訓とすべきだと考えている。『菊と日本刀』の著者は次のように書かれているので引用しておくことにしたい。
私も大なり小なり生ける戦犯としての負い目や憂き目めいた体験を経て、『私は貝になりたい』という受け身の姿勢から、かつての統帥権への矛盾、憤懣の鬱積を自らの手で模索し具体的に解明する方向へ歩み始めた。人格高邁、高度な知識人で良心的行動派の層へ多少の接触も試みたが満足し得ず、この上は自らの手と足とで克明かつ鮮明なデータをと模索していったのである
このような言い方になるのだが、同書の著者は、私の取材に対して「簡単にいえば良心のうずきというものでしょう。晩年になればこういう感情につき動かされるわけだし、なにより卑怯な言い方になるかもしれないが、もともと性おとなしい自分をこんなふうに変えた陸軍の組織原理に心底から腹が立ってくるんです」とも話していた。軍事指導者たちは決して直接人を殺めることはない。心理的に苦しむことはない。それは末端の兵士や下士官、そして下級将校に命令するだけだからだ。この不合理に苛立ち、そしてその構図を批判しないことには自分の役目は終わらないと実感したというのである。
中国帰還者連絡会(通称・中帰連)の会員たち何人かに話を聞いていくと、結局落ち着く先はこの点になる。こういうケースを次に語っておく。
中帰連の埼玉支部で活動を続けていたK氏は、東京外語出身の学徒兵であったが、昭和十九年、二十年初めに中国の東北地方で強制連行のために中国人青年の「狩り」を行ったことを克明に証言している。K氏によると、この作戦は「うさぎ狩り」といわれていて、ある部隊が「警備地区」を担当すると四方から日本軍兵士が村々を襲い、青年の追いだしにかかる。その青年たちを塘古、済南、青島、邯鄲などの捕虜収容所に集めて日本へ送り強制労働に従事させた。
K氏はこの作戦に従事し、村々から青年たちを連行して収容所に送りこんだという。K氏によるとそれぞれの部隊には、割当ての人員数があり、それを達成するために必死だったと証言する。これについてK氏は、当時の自分はこの「うさぎ狩り」は国策に合致するのであり、何の矛盾も感じていなかったと証言する。こうして集めた中国人青年は、それぞれの収容所を合わせると四万人以上になったはずといい、日本に強制連行として送られた中国人は、「(中帰連などの資料では)三万八九三五人」に達したというのである。
各収容所はテントづくりでそこに中国人青年を何人も収容したために病死、加えて満足に食事も与えなかったので餓死する者も相次いだという。さらに日本に送られるときは貨物船の最下層部に押しこめたがゆえに、そこでも死者が出たと証言している。
とにかくK氏は、自らは戦犯として不起訴になったが戦後日本に戻り、そして老いるに従い、自らの行為に罪の意識を感じつづけていると話す。私がK氏に丹念に話を聞いたのは、一九九〇年代初めのことであったが、この「うさぎ狩り」によって亡くなった人たちを思うと自分を責める気持が抑えられなくなるというのであった。
私が取材していた一九九〇年ころ、ある中国人女性から「自分の叔父が強制連行されたあと生死が不明なので調べてほしい」との連絡が中帰連にあり、その女性の叔父についての情報(山東省栄成県威海衛地区で連行されたらしい)をもとに、K氏はそこに駐屯していた部隊をさがしだし、そこで行われた強制連行の実態を調べているときだった。
驚くことにここに駐屯していたのは、独立混成第五旅団であり、昭和十七年、十八年ころに在籍していた将兵はすべて戦死、あるいは戦後になって戦病死していたというのだ。関東地方の出身者が多かったというのでその後の第五旅団について、軍人恩給などのルートを辿って関係の紙誌に呼びかけをだすなどして、その後、この第五旅団に属していた将兵がわかった。
K氏はそういう手づるを頼って、この中国人女性の叔父が、第二期の「労工狩作戦」で連行され、まずはその地の銀行の倉庫に押しこまれたことまで判明した。この叔父は知識人で肉体労働にむかないというので殺害されたか、その容貌から八路軍の幹部という前歴がわかり、拷問死したらしいというところまで辿りついたと言っていた。K氏は、
「どのようにこの女性に伝えるべきか、私は苦しい」
と心情を洩らしていた。そのK氏から後日、その中国人女性へ手紙で伝えた旨、私のもとにも連絡があった。その連絡の手紙は、「一九九二、六、一」の日付となっているので、「一九四二」か「一九四三」の発生から、実に五十年を経てこの事実が一人の日本軍の下級将校の調査によって明かされた。こうした調査は資料・文書がないためにすべて生存兵士の口から口へと伝わってわかったことだという。
前述の『菊と日本刀』著者の証言をもう一例紹介しておくが、彼は自らが置かれた立場を正確に記録するためにお茶の水界隈の古書店を日常的に回ったという。あるとき古書店の主人から、「あなたは憲兵か」と強い口調で問い詰められた。そうではないと否定し、自分がなぜ古書店めぐりをしているか、自らの軍隊体験を語ったときに、その古書店の主人は、「実は憲兵だった者が古書店を回って、自分たちの罪業を綴った記録文書を買い漁っている。それを一カ所に集めて次々に焼却している」というのである。
著者はその言を聞いてどのようなルートでそれが行われているのか独自に調べている。そのことに自著の中でふれている。
「(ある組織があり)チャンとした資金ルートがあり、某有力政党にスポンサーがいるという。でもB堂のオヤジの数十年のキャリアからすれば一見して客筋の〝好し悪し〟が判るらしい」
こういう組織だった動きは、むろん憲兵隊の罪業を後世に残すまいとの焦りだったわけだが、古書店の主人たちがこれに抵抗してあまり表の棚にはその種の書をださなかったというのである。
中帰連という組織は今はない。今も『中帰連』という冊子は刊行されているようだが、それは次世代の者が戦争の記憶と記録を紡いでいこうとの使命からなのだろう。だがこうした流れを見ても、私たちの国には常に記憶と記録を解体せしめようとの動きがあることがわかる。それは「昭和二十年八月十四日」に軍事・政治指導者たちが「一切の史料を焼却せよ」と命じたその命令が今なお生きていることになるともいえるのだ。
このような動きに抗して戦争の記憶と記録を歴史の中に刻みこんでいくのは、戦争の時代に生きた人たち個々人の苦悩とその伝承への熱意に次代の者がいかに思いを共にして語っていくかという闘いでもある。