〈セカイ系〉のアニメから読み解くスコラ哲学 山内志朗『中世哲学入門』
記事:筑摩書房
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アニメをそんなに見るわけではないのだが、庵野秀明のエヴァンゲリオン・シリーズや新海誠の映画はかなり見てきた。なぜか昔から気になるのだ。関連文献もかなり読んだ。どうもスコラ哲学的な匂いがするのだ。なぜなのだろう。
それらには、戦闘系美少女キャラが登場することが多い。そういうキャラに「萌え」を見出すという構図らしい。
こういう形式は、〈セカイ系〉と整理される。〈セカイ系〉とは何か。二十一世紀の初頭(ゼロ年代、Z世代)に、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルなどに見られる「オタク文化」という言説空間の中で成立した文化形態だ。〈セカイ系〉のファンは、青年男子というのが標準的な捉え方だが、流行は、享受している人々はオタクに限定されるのではなく、女子にも広がり、コスプレ流行とも結びついているようだ。
様式としては、少年と少女の恋愛が世界の破滅や危機といった世界的・大局的困難に直結する状況の中で、少女のみが戦い、少年は戦場から排除される構図をとる。少女はメシア的役割を持つ人物として描かれる。そして、〈セカイ系〉では個人と世界とを媒介する中間的組織や規範性を持つ共同体や世間といったものは周辺部に配置され、物語で重要性を持たない。
〈セカイ系〉を考えていると、アリストテレスの『詩学』との対応が気になる。アリストテレスは、劇の構成要素として、次の六つを挙げる。①筋(ミュトス)、②性格(エートス、キャラクター)、③語法、④思想、⑤視覚的装飾、⑥歌曲。
語法や視覚的装飾や歌曲というのは、興行的には重要なのだろうが、ここでは端折る。「筋」というのは、英語ではプロットなどと言われるもので、単に様々な出来事を並べたものではなくて、表現されるべきもの、つまり思想を可能にする舞台として考えられる。そして、その「筋」は途中で終わってしまうものではなく、始まりと終わりを持ち、最後まで到達することが何らかの目的を成就し、完成する形式を有している。
「思想」には、成就や完成という条件が必ずしも必要とはされないが、「筋」には主要な登場人物や始まりと終わりという形式が必要であり、「エートス」とは特定の登場人物が担うものであり、その人物に自分を投影して、感動したりすることができる。〈セカイ系〉における登場人物が、〈セカイ系〉という枠構造においていかなる「筋」を担うために形成されているのか気になるのだ。
私には、〈セカイ系〉という枠組みが現代における若者の個体化の表象を具体化しているように見えるのだ。それは現代における若者の自分探しの困難を物語っているのではないか。そして、その物語は西洋中世哲学の枠組みと通底しているのではないか。若者は、基本的エートスとして「地味で暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もないパッとしない」(再放送されている朝ドラ『あまちゃん』の主人公天野アキの性格)というのは、大事な点だ。中世スコラ哲学の個体化論を呼び寄せてしまうのだ。
中世スコラ哲学では、個体化の原理が十三世紀後半以降盛んに論じられた。そして、この個体化論こそ、普遍に関する実在論と唯名論の論争の舞台だったのである。中世の普遍論争について、三十年前に入門的概説書を出して中途半端に終わったが、今回続編を『中世哲学入門』としてちくま新書で刊行することができた。〈セカイ系〉を哲学的なテキストとして解読する必要はないのだが、私の頭の中では両者はお隣り同士なのである。
『普遍論争』(哲学書房、一九九二年)を出した時、これが私にとって最初の本にして最後の本になるかもしれない、と戦々恐々の気持ちだった。それから三十年も経った。中世のテキストを読んできても、結局巨大な哲学の欠片に触れただけだが、様々な発見に出会えることはいつも楽しい。今回のちくま新書で出すことができた『中世哲学入門』では自分なりに筋を通して中世哲学を見ることができたと思う。