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幻景のメキシコシティ――「かつて」の地層を描きだすポニアトウスカの小説世界

記事:幻戯書房

著者ポニアトウスカと『乾杯、神さま』。右は、著者が描きだした証言者ヘスサ・パランカレスが生きた時代を彷彿させるメキシコシティの街並
著者ポニアトウスカと『乾杯、神さま』。右は、著者が描きだした証言者ヘスサ・パランカレスが生きた時代を彷彿させるメキシコシティの街並

他者の声からメキシコをとらえる『乾杯、神さま』

 『乾杯、神さま』はヘスサ・パランカレスの物語だ。激昂と哀感が合わさった言葉遣いでへスサみずからその数奇な生涯を語る。語りの深淵には、革命前後のメキシコの記憶が一筋の地脈のように流れ、物語はその脈動を、まるで一時代を切り取ったフィルムのように映し出す。文章から、ヘスサが生きたであろう、かつてのメキシコの風景が鮮明に浮かび上がってくるのだ。

エレナ・ポニアトウスカ『乾杯、神さま』(鋤柄史子訳、〈ルリユール叢書〉)書影。
エレナ・ポニアトウスカ『乾杯、神さま』(鋤柄史子訳、〈ルリユール叢書〉)書影。

 今回、本作品の翻訳にあわせて、作者エレナ・ポニアトウスカにインタビューする機会に恵まれた。ポニアトウスカは、この作品を書いたことがメキシコをとらえるための大きな学びの機会となった、と話してくれた(著者へのインタビュー全文は『乾杯、神さま』に所収)。へスサという人物の根幹には、実在する一人の女性の証言がある。物語を読み通してみると、作者のいうメキシコとは、彼女の強烈な気質と毅然とした態度とは裏腹の、その心底に鬱積する苦しみや哀しみを通して理解されたものだということがわかる。

革命後期メキシコシティのある風景

 ヘスサがメキシコシティに住み始めるのは10代の終わり、時世ではカランサ政権時代なので1917年以降だ。しばらくすると彼女の生活の中心は、街で一際赤く輝く界隈、クアウテモツィン街になる。ここは、売春斡旋業がまだ法の下に許されていた頃に栄えた色街だった。ヘスサは酒場で仕事をこなしながら酒と踊りに明け暮れる日々を送っている。都会でひとり身を立てながら、飲み友達や踊りの相手に囲まれて夜を謳歌する様子がうかがえる。酒はプルケ、テキーラ、リキュール入りコーヒーと嗜む。ヘスサいわく、強い酒を一夜で一瓶空けても、合間にライムをかじれば二日酔いとは無縁だそうだ。客の男の不平にも真っ向勝負で立ち向かう。この頃のへスサに、酒でも口舌でも喧嘩でも右に出る者はない。

 クアウテモツィン街はアラメダ公園を少し下ったところにあった。それを囲うように警察第六課や、女性の衛生管理を担うモレロス病院、そしてベレン刑務所が点在していた。ヘスサは男と喧嘩して警察第六課に二度連行されている。二度目には法官にベレン刑務所行きの判決を言い渡されている。またモレロス病院では、酒場の職を離れた一時の間、女性たちを看病する仕事についている。病院にはさまざまな病気を抱えた女性がいたが、その多くは商売で性感染症を患い、保健局の人間に連れてこられた娼婦たちだった。

 ひたすら栓を抜き差しするうちに症状は快方に向かい、女は再び路上へと戻っていく。別の患者で、そこら中に炎症を起こした女がいた。陰門全体が丸々と真っ赤っかに腫れていたんだ。……みんな貧しかった。路上にたむろする下手物の女たち。与えられた物に見合う価値だけを付された女たち。(本書より)

 へスサは住まいを点々とするが、その多くはべシンダという、小さなアパートが密に軒を揃える共同住宅の一角にあった。そこに暮らす人々は、病気を抱える者や子どもをひとりで育てる女性、生活が不安定な者が大半だった。いざこざが絶えないが、お互いに支え合って生きている。へスサも子どもを預かったり、梅毒もちの男に工面してやったり、一方で病気したときに周りに世話をかけたりと、コミュニティの中で持ちつ持たれつの関係を築いている。

 わたしをベッドに寝かせてから、ドン・ルチョが言った。
 「さあ、死ぬってんなら好きにしな。だけどどこか余所に身を寄せたりするんじゃあないよ! ここが、あんたが生き、死んでいく家だ。通りの隅のベンチで犬みたいな最期は迎えさせやしない。どんな埋葬をするかはそのうち考えればいい。ゴミ箱が棺桶になったとしてもそれはそれだ……」。(本書より)

流れ去る風景と遺る歴史

 ヘスサが連行された警察第六課は現在、ポピュラー・アート博物館になっている。ただし、訳者が調べたところによると、第六課としてより知られていたのはもう二つ通りを下った所だ。現地の新聞記事によると、この建物は現在「警察博物館」として門を開いている。ベレン刑務所は取り壊され、1934年その跡地に小学校が設立された。モレロス病院は1966年に移転、建物は1986年にフランツ・マイヤー美術館となる。

 へスサが生きたメキシコの面影をたどろうと、昼間の明るい時間にこの界隈を歩いてみた。緑豊かな憩いの場、アラメダ公園からルイス・モヤ通りを下っていくと、一つ通りをはさんだ右手向こうに例のポピュラー・アート美術館が見えてくる。白一色の建物だ。さらに二つ通りを下れば警察博物館がある。左手にあるのがサン・フアン市場だ。この市場は珍味を食べさせてくれることで知られている。さらに下るとアルコス・デ・ベレン大通りに出る。車とバスが行き交い、騒音すさまじいこの大通りを右に曲がってメトロのバルデラス駅まで行けば左角に小学校がある。かつてベレン刑務所のあった場所だ。そして、大通りを引き返して西へと進み、南北に走るラサロ・カルデナス大通り、当時のニーニョ・ペルディード通りを越えると、そこが色街クアウテモツィン街の栄えた場所だ。

フランツ・マイヤー美術館。アラメダ公園の北に位置する。ドイツ系移民のフランツ・マイヤーが世界各地で収集した美術品を所蔵。建物は16世紀末から病院として機能していた。(筆者撮影)
フランツ・マイヤー美術館。アラメダ公園の北に位置する。ドイツ系移民のフランツ・マイヤーが世界各地で収集した美術品を所蔵。建物は16世紀末から病院として機能していた。(筆者撮影)

ポピュラー・アート博物館。しばらく廃墟となっていた建物を修繕し、2006年に設立された。メキシコ各地の民芸を展示する。(筆者撮影)
ポピュラー・アート博物館。しばらく廃墟となっていた建物を修繕し、2006年に設立された。メキシコ各地の民芸を展示する。(筆者撮影)

 美術館や博物館、小学校に姿を変えた建物とは一線を画すように、クアウテモツィン街の跡地は閑散としていた。古いビルが並び立っていたり、小さな売店や修理工場が点在していたりするものの、昼間でも人通りは少ない。車もあまり通らなかったが路上駐車してある車の数が多く、歩きにくかったことを覚えている。ここが、ヘスサが夜を謳歌し、明け方にリキュール入りコーヒーを一杯やっていた所だろうか、と心もとなくなった。ヘスサの住まいだったベシンダも取り壊されていた。ヘスサを含めた貧困層の人々が生きたかつての風景は歴史的建造物の影に隠れ、一日二日歩いただけではとうてい見つけることはできなかった。

旧クアウテモツィン街ネサワルコヨトル通り。通りの名称は今もそのままだった。遠方の角には「HOTEL」の看板があった。(筆者撮影)
旧クアウテモツィン街ネサワルコヨトル通り。通りの名称は今もそのままだった。遠方の角には「HOTEL」の看板があった。(筆者撮影)

風景を書く

 毎晩のように踵を強く打ち鳴らした。踊り場の開く日は、そりゃあ浮かれ調子さ。月、木、土、日曜日は広いサロンへ向かう。だから、月曜日に踊りに出て家路に着くのは明け方三時ごろだ。みんなで家の前の角にあったコーヒー屋でリキュール入りのトロ・プリエトを飲むのが習慣だった。(本書より)

 『乾杯、神さま』を読むと、へスサの生活の風景が目の前にありありと広がり、それはたしかにここにあったと思える。そして、今のメキシコはこうした「かつて」の地層がいくつも積み重なってできあがった街だ、ということが感じられる。ポニアトウスカが1963年から数年かけてヘスサから聞いたメキシコは、都市開発の隅で土ぼこりを立てて脆く崩れようとする層だったろう。けれどもポニアトウスカにとってそれは、苦悩と喜びが散在し、彼女自身の内に実りをもたらす豊潤な土地だった。作家はそれを紙面へと書き起こし、彩りを添えて世に送り出した。弾力に富み、力みなぎる筆致で地層に根を張り、へスサの物語は54年の間メキシコ国内外の読者の心に種を蒔いてきた。

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