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二人の国民的作家は、ともに美術記者だった――井上靖と司馬遼太郎 異なる「美」へのまなざし

記事:平凡社

井上は大阪毎日新聞、司馬は産経新聞で記者をつとめ、美術や宗教欄を担当した
Photo by Jan Kahánek on Unsplash
井上は大阪毎日新聞、司馬は産経新聞で記者をつとめ、美術や宗教欄を担当した Photo by Jan Kahánek on Unsplash

新聞記者時代を振り返って

「結局、新聞記者を何年やっておられた?」
「たしか13年だったと思います」
「私と大体、同じくらいですね」
「それで最後は、美術を受持ちました」
「似てますねえ。美術、宗教というのを受持つのが、将来、ものを書くには一番いいですね」
「暇ですしねえ。そうですか、13年でいらっしゃいましたか」
「ええ、やはり13、4年でしょうか」

 「サンデー毎日 臨時増刊」(1972年4月)に掲載された井上靖と司馬遼太郎の対談「新聞記者と作家」の冒頭である。「美術、宗教というのを受持つのが、将来、ものを書くには一番いい」と話しているのが井上靖で、「暇ですしねえ」と司馬遼太郎が応じている、そのちぐはぐ感がなんだかおかしい。同時に、さらりとかわされて蒸し返されなかったこの一言が、どうも気になる。

 新聞記者として美術と宗教をうけもち、じっさい物書きとなってその経験を誰よりも生かしたのが井上靖だったのではなかろうか。その実感が、ことさら意識せず自然にもれたのかもしれない。かたや、乗りのよくない返事をした司馬遼太郎は、ふいに話の角度をそらしたか、逆にひと言では答えがたかったために軽くとりつくろった、と読んでしまうのは穿うがすぎであろうか。

 昭和のある時期、二人はともに大阪で美術記者をしていた。展覧会の紹介や批評、芸術家のインタビューなどを記事にする仕事である。望んだポストではなく、いずれも各社の人事であった。それぞれの回想によれば、一人はその仕事を積極的に受け入れて精力的に取り組み、その後も生涯、美術と密接な関係を保ちつづけた。もう一人はその仕事を“忌み嫌い”、やがて役目から解放されたあと自由に美術と接する醍醐味を知った。なりゆきであれ、二人は新聞記者として時代の美術現場とどのように向き合ったのか。その経験はのちに何をもたらしたのだろう。

2023年9月13日刊『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』(ホンダ・アキノ著、平凡社)
2023年9月13日刊『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』(ホンダ・アキノ著、平凡社)

 大学2年の頃、美術史の面白さを知った私は、駆り立てられるように展覧会に足を運び、関連の本を読み、研究者を目指して大学院に進んだ。しかし学界という独特の雰囲気に呼ばれていなかったらしい。こんどは美術記者になれたらと新聞社に入ったが、希望が叶わぬうちに退社した。美術史研究者にも美術記者にも挫折した私は編集者となり、仕事のなかで、かつて美術記者であった井上靖と司馬遼太郎に、出会ってしまったのである。愛読する作家はともに美術記者をしていた、それも私が生まれ育った大阪を足場に。井上が美学美術史を学んだ大学院の先輩にあたることにも驚いた。気になって仕方がない。いつしか二人の美術記者の周辺をたどることは、自分に与えられた課題に思えてきた。これを越えないと、どこだかわからないが次に進めない山となったのである。

京大大学院で美学を学んだ井上

 明治40年(1907)北海道旭川で生まれた井上靖は、一年たらずで本籍地であり、小説やエッセイの舞台にもたびたび描かれた故郷、伊豆湯ヶ島に移る。そして放浪期ともいえる青春時代を経て、29歳の時に大阪毎日新聞社に入社した。昭和12年ごろから戦争を挟んで昭和23年にかけて、30代の大半を学芸部の美術記者として過ごした。

 いっぽう司馬遼太郎は大正12年(1923)大阪で生まれ、生涯のほとんどを大阪で暮らした。戦後、復員して京阪神の地方紙・新日本新聞の記者となるが倒産、産経新聞に移ったのち、昭和28年頃から33年頃、20代後半から30代半ばまで美術記者をつとめた(その前後、後にものべるように二人はともに「宗教記者」でもあった)。重なる時期はなく、記者クラブや画廊など取材現場で顔を合わせる機会はもたなかったはずだ。二人はやがて、小説を書くことに専念するために退社した。

 新聞社時代についての回想によれば、井上はすでに自称「おりた」記者であった。会社に入って間もなく、麻雀でいえば、勝負をおりた立場に身を置いたのだという。記者として偉くなろうという気持ちには程遠く、逆にいえば自分の好きなことを好きなようにやろうとしていた。学芸部記者時代については、「主として美術と宗教欄を受け持ったが、これはこれで私としては結構面白かった」(『私の履歴書 中間小説の黄金時代』)と書いている。会社では自分の席にいるより、調査部の資料室にいる時間のほうが長く、このころに作家への伏線ともなる「調べて書く」作業がどういうことかを知ったともいう。昭和14年の一時期には、会社に学費を出してもらって古巣でもある京都大学の大学院に籍をおき、美学の勉強をしている。

 「植田寿蔵博士のすすめで、ドボルシャックとかリーグルとかを本気で訳そうと思った」

 というのだから本格的で、「この時期は本当に美術評論家になろうと思った」。美術に相当入れこんでいたことがうかがえる。

「私は小説を書き出した時、文学以外のものをすべて自分から切り捨てるよう、自分に言いきかせた。そして映画も、演劇も、音楽も、スポーツも、自分の関心の外に置くことにした。ただ一つ、美術だけは例外だった。捨てることはできなかった」

 晩年の昭和59年(1984)、全国六会場を巡回した、いわば「井上靖の美術展」の図録の巻頭につづった文章である。自身にゆかりのある美術品を集めたものだけに、美術に傾いた筆致となるのは自然で、たとえ結果論でも、かなり正直な気持ちでもあったろう。

「美術と縁が切れなかったのは、たとえ名前だけであるにしても、京都大学時代に美学美術史を専攻したということになっており、またそうしたことのつながりで、毎日新聞社の記者時代は美術欄を受持たせられており、このように若い頃、美術と付合った一時期を持っていたからである」

 小説家となってからの仕事は多岐にわたったが、初期は小説に画家や陶芸家を主人公や重要人物としてしばしば登場させ、その後もエッセイなどで芸術について執筆するなど、平成3年(1991)に84歳で没するまで積極的に美術にかかわりつづけた。そういった文章は『美しきものとの出会い』『忘れ得ぬ芸術家たち』などの本にまとまっている。

「美術オンチ」を自称した司馬

 司馬遼太郎はどうか。井上の言い方を借りれば、美術の担当となるや福田定一ていいち(本名)記者は「おりた」、といえるかもしれない。

「まだ30でしたが、もうわたしとしては新聞記者として車庫入りしていたような感じで、といいますのは社会部から文化部へまわされましてね。美術批評を書かされたんでしたが、それがいやで、なんのために新聞記者になったのかというと、火事があったら走ってくためになったんで、もう落魄の思いでした」(「足跡 自伝的断章集成」)

 しかし実際は、周囲からは美術担当がいやだったとも、落胆していたとも見えなかったという(『新聞記者 司馬遼太郎』)。そもそも、「子供のころ絵描き――それもウチワに絵をかく程度の――になろうとおもったことがあります」(「足跡」)というから、決して美術が嫌いだったのではない。紙面では「美の脇役」といった企画連載も率先して手がけた。

 自身が納得していたかはともかく、美術を熱心に勉強し、絵をみるために動くことをいとわなかった。真面目なサラリーマンであったともいえる。ただ勉強熱心は頭でっかちの苦しみをもたらしたのだが。

 一方で、国民的作家と呼ばれるようになり平成8年(1996)に72歳で急逝するまで、折にふれて自らを「美術オンチ」(『街道をゆく 韓のくに紀行』)と称したり、どこか美術が苦手なをしていたようにもみえる。謙遜や自嘲でなく、彼なりの韜晦とうかいがこめられていたとも思う。『街道をゆく』シリーズでは須田剋太こくたら複数の画家たちとの“共作”のようにスケッチをたのしみ、画家が同行できない時にはピンチヒッターを務め、自ら挿画を描いた。また美術に関する文章を集めて『微光のなかの宇宙――私の美術観』にまとめている。

 そんなふうにみてくれば、距離のとりかたは異なっても二人は生涯を通じて美術に寄り添いつづけたともいえる。背景に、美術記者としての若き日々があったことは事実である。

「誰も持たない美についての微妙な作用」

 16歳の差がある二人は、少なからず直接の交流をもっている。昭和50年(1975)に作家団の訪中で同行し、その二年後、互いに若いころから強い思慕を抱いてきた西域への旅にも同行、この経緯は翌昭和53年、対談集『西域をゆく』としてまとめられた。

 そもそもの出会いは、ずっと以前にさかのぼる。40歳を過ぎてデビューした井上靖は、流行作家として多忙な時期を送っていた。かたや昭和35年に「梟の城」で直木賞を受賞した司馬遼太郎は、一年ほどして新聞社を辞め、本格的に作家生活に入ろうとしていた。

「昭和30年代のいつだったか、小説を書くことにたくさんの時間を使いたかったため、勤めていた新聞社を辞めようと思い、その手続をした。その夜、たまたま大阪の酒場のカウンターで井上靖氏と出逢った」(「雑感のような」)

 偶然にしては、運命的にも思われる。この夜、井上は四高の柔道部時代の仲間たちと一緒だった。そして多少どぎまぎしていた新人小説家を、仲間の一人一人に丁寧に紹介したという。といっても当人同士が初対面なのだから、その前に著名な作家が店内にいることに気づいた司馬が、礼儀としてあいさつの言葉でもかけたのか。店主や連れの新聞社の誰かが仲介の労をとったのかもしれない。そうして歓談がはじまったものの、年少の司馬からすれば多少息苦しい時間であった。共通の話題もみつからないまま、「つい私事をいってしまった」。このたび自分は勤めを辞めて作家の道をゆくことにしたのです、と。すると井上は即座に答えた。

 「それはようございました」

 その声は、「ちょっと類がないほどにいたわりのこもった声」に感じられた。新聞社に入ったころから、30歳になれば退社して小説を書こうと漠然と思い始めていた司馬は、しかし、勤めをやめることで仲間たちの群れから独りぼっちになって暮らすことにつらさを感じていた。この日になっても実際に会社を辞めて筆一本の生活に入る選択がいいことかどうか迷いがあった。そんな福田記者は、「この言葉に救われた」という。

 「混乱していた自分の気持が氏の声で――意味でなく――一瞬で諧調がハタハタとした風のような音をたててできあがってゆくようなふしぎな――作用されてしまったような――実感をもった」

 打てば響くように放たれた井上の明るい声が、後輩作家の気分をふわりと浮上させた。同じ道を選び、堂々と歩みつつある先輩作家が太鼓判を押してくれたのである。

 初対面のこの夜、司馬は、当時の自分より10歳以上年長の人たち、文壇人にも例外なくしばしば見られた病的伝統とも思われる「日本人のもつ意地悪さ」が、井上にまったく見られないことに、逆に興味をもったと振り返っている。さらに、人当たりのいい紳士、という井上の評判に反して、その奥にある別の面を直観的に見てとったのではなかろうか。そしてこう述べるのである。

「私は氏の美術評論を二、三それまでに読んでいたが、このひとは誰も持たない美についての微妙な作用ができる天分をもっているのだと思ったりした」

 井上と美術の“独特の関係”を、文章から感じとったようなのだ。

 それにしても、「誰も持たない美についての微妙な作用」とは何だろう。それを察知する司馬の美術への、人間へのまなざしとはいかなるものであったのか。

 芸術というものへの向き合いかたは人さまざまであろう。美に出会い、接した日々は、のち小説家となった二人にとってどんな意味をもったのか。生きている限り、常に人とともにある芸術とはいったい何なのか――漠としたそのような問いを抱えながら、二人の長い営みの森へと、一歩ずつ踏みだしてゆこうと思う。

『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』目次

序 
第一章 遅咲きの桜――須田国太郎のこと 
第二章 一期一会と想像力の飛翔――井上靖を中心に 
一 創造美術のスクープとその前後
二 惚れこみと物語化――ゴヤへの熱中
三 西域の旅――シルクロードにて 
第三章 狂気とかなしみへの共振――司馬遼太郎を中心に 
一 「絵描きになろうとおもった」 
二 驚きのその先へ――八大山人 
三 狂気と「文学」――ゴッホと鴨居玲 
第四章 美術の先へ――それぞれのアプローチ 
一 美を超えたもの――上村松園 
二 生命の発光――三岸節子 
三 陶とはなにか――井上靖と河井寛次郎、司馬遼太郎と八木一夫 
第五章 二人の宗教記者 
一 宗教記者・井上靖 
二 宗教記者・福田定一と司馬遼太郎 
三 仏塔と書のことなど 
おわりに――回り道の恩寵
あとがき

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