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井上靖「夏草冬濤」 文学の香りのようなものの洗礼を受けた 新潮社・佐々木勉さん

 大阪・枚方の中学時代、柔道部での練習中に腰椎(ようつい)を痛めて休部した私は本を読むようになった。井上靖の『しろばんば』には親元を離れた洪作少年と血の繋(つな)がらぬお婆(ばあ)さんとの、伊豆湯ケ島での田舎暮らしの日々が描かれていた。

 彼が中学(旧制)を受験するところで終わっていた。続きを猛烈に読みたかったが、続編があるのかも、何という書名なのかも分からなかった。

 あるかどうか分からぬものは探さず、柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎らの剣豪小説や忍者小説を読みふけった。

 寝屋川の高校時代、剣道部に入るがすぐに腰椎の痛みが再発し、読書に舞い戻った。明山君という医大志望の秀才が読書家で、

「『しろばんば』の次は『夏草冬濤』。その次は『北の海』やで」

 と教えてくれた。また、

「『しろばんば』で読むの止めるって、めっちゃ根性あるな」

 と私の克己心を称賛してくれた。

 頁(ページ)をめくるのももどかしく『夏草冬濤』を読んだ。

 洪作は沼津の中学生になっていた。柔道をし、千本浜で和歌を謳(うた)い、ラーメンを2杯単位で食べ、成績はみるみる落とし、女学生の一群とすれ違うとうつむいていた。

 自分よりも60歳も年かさの作者の、大正時代の沼津の少年たちの青春であるはずなのに、昭和55年の大阪の高校生の私の胸中にキラキラと輝き響いた。

 こうして文学の香りのようなものの洗礼を受けたのだった。=朝日新聞2019年10月16日掲載