ホーイチはヘイケ・グレイブヤードでビワを激しくプレイする
――円城さん訳の『怪談』は、日本人に長年親しまれてきたラフカディオ・ハーンの名作に、「直訳」という手法で新たな光を当てた一冊です。まずは翻訳にいたる経緯を教えていただけますか。
たまたま原文で読んでみたんですよ。2013年にアメリカに行くことになって、無駄な抵抗として機内で英語でも読んでおこうかなと。なぜ『怪談』を選んだのかは忘れましたが、大した理由はなかったと思います。ところが読んでみたら、自分の思っていた作品と全然違った。そもそも人名が分からないんです。この「ムソ・コクシ」って一体誰なんだろうかと。空港に出てすぐに検索して、夢窓国師(臨済宗の僧侶)だと分かりました。ホーイチはヘイケ・グレイブヤード(graveyard=墓地)でビワを激しくプレイするし、ローマ字で延々書かれた歌のようなものも意味不明だし、どこか知らない国の民話集を読んでいるような気になったんです。これを書かれているとおりに訳したら面白いんじゃないだろうかと思ったんですね。日本はかつて不思議の国だったし、今でもきっとそうなんですよ。内側にいると気づかないだけで。
――「百年前、海の向こうで本書を読んだ人々の中で生み出された光景と、百年前を想像するわれわれの中に浮かぶ光景は意外に近しいものであるかもしれない」(「訳者あとがき」)とお書きになっていて、なるほどと思いました。
それと僕は常々日本の歴史小説は特殊だと思っていて、ひとつの単語が含んでいる情報量が多すぎて、面白いのに外国語に翻訳できないんですね。説明なしに「信長は」と書いても、外国人には分からないですよ。でも多くの日本人は分かってしまうので、気にせずそういう書き方をする。このままでは巨大化して絶滅した恐竜のようになるのではないかという思いがあって、もっと身軽な書き方を見つけたいと。その方法を探るうえでも、『怪談』を翻訳してみるのはありかなと考えました。
サムライが抜くのは、刀ではなく「ロングソード」
――翻訳にあたって、アルファベットで書かれている日本語は原則片仮名表記する、というルールを採用されていますね。たとえば壇ノ浦は「ダン・ノ・ウラ」、琵琶法師は「ビワ・ホウシ」です。
これまでの翻訳ではハーンが参考にした資料にあたって、ふさわしい漢字を当てるというやり方がメジャーでしたが、当時の英米の読者はよく分からずに読んでいたわけですよね。その感じに近づけるには、片仮名表記のままがいいなと。ハーンが書いていないことは原則書かない。ネットで混乱している方がいましたが、「ゴブリン(キジン)」という表現も原文のままなんです。
――「マット敷の広間」「藁製のレインコート」など、どれも訳語が絶妙ですね。サムライの武器を「ロングソード」と訳しているあたりには、円城さんのこだわりを感じましたが。
刀と訳すのはちょっと違うと思ったんですよね。『ウィザードリィ』(米国で生まれた冒険ファンタジーゲーム)でもロングソードと刀は別アイテム扱いだったはずですし(笑)。長剣でもよかったんですが、向こうの人のイメージの中でサムライが抜いているのは、やっぱりロングソードだよなと。そのくらいのおかしさが原文のニュアンスに近いと思います。
――今回「ミミ・ナシ・ホーイチの物語」を読んで初めて気づいたんですが、この話は結末でタイトルの意味が明らかになるという構成なんですね。
そうなんです。「ミミ・ナシ・ホーイチ」が「ホーイチ・ジ・イヤーレス」であると明かされる、一種の落とし話になっているんです。そのくせミミがイヤーであるという説明はないので、なんだか中途半端な落ちの付け方なんですが(笑)。この効果は日本語訳にすると失われてしまうんですよね。同じような効果を出そうとするなら、たとえばキリル文字などで主人公の名前を表記するとか、そういう方法をとるしかない。
――「ジキニンキ」「ムジナ」「ロクロ・クビ」。その他の作品もタイトルだけではどんな内容かまったく分からないですね。
そもそもハーンは「KWAIDAN」の説明をしていないですから。序文を読んでやっと日本の話なんだということは判明するんですけど、怪談とは何なのかという説明はどこにもない。それまでの著作の傾向から、おぼろげに類推するしかないんです。小学生の頃に読んだ本って、思えばこういう感じでしたよね。文字は追えるんだけど、書かれている内容が頭に入ってこない。『怪談』はそういう本でもありますよね。
日本人が選んだのは、ハーンではなく小泉八雲
――「当時の英語読者にとって『読みやすい物語』ではなく『驚異の書』として受け止められたことだろう」と円城さんは書かれていますが、ハーンはわざとこういう書き方をしたのでしょうか。
わざとかは分かりませんが、自由に書いている本だなという印象は受けます。ハーンはこの本を校正して亡くなってしまうわけで、総決算的な雰囲気があるんですよね。日本で聞き集めた物語だけでなく、ウェールズで過ごした少年時代の思い出や、日本文化に関する研究まで収められていて、ハーンはこういう人ですよというショーケースのような本になっている。当人は死期を悟っていたわけではないと思いますが、結果的にそうなっているんです。
――ハーンの『怪談』といえば、和の情緒漂う怪談文芸の名作、というイメージを抱きがちです。しかし直訳で読んでみると、また違った印象を受けますね。
全体に意外と明るいんですよ。「ミミ・ナシ・ホーイチの物語」の和尚が良い例ですけど、芳一が大けがしているのを見つけて、Cheer up, friend! って呼びかけますからね。友よ、元気を出すのだ!って。他に言い方があるだろうと思うんですが、書いてあるからそう訳すしかない(笑)。
既訳を読み比べてみると、最初のうちは割と直訳調で、チア・アップ的なニュアンスをそのまま訳しているんです。それが徐々に削られていき、日本語として読みやすく、美しいものになっていく。日本人がハーンを放浪の異国人ではなく、日本文化を愛した文学者・小泉八雲として受容することを選んだ、とも言えるでしょうね。
――訳していて苦労された箇所はありますか。
先行訳もありますし、方針さえ決まればさほど苦労はなかったです。本文よりむしろ解題を書くのが大変でした。ハーンが引いているエピソードの出典を調べるために、中国の古典に当たる必要があって。今はオンラインで読めるんですが、それでも結構手間がかかりました。それから「ユキ・オンナ」を当初は「雪女」と表記していて、後から気づいて修正したということがありました。原文が「YUKI-ONNA」なので、ルールどおり片仮名にすべきところなんですが、無意識的に漢字で書いていた。雪女おそるべし、と思いました。
日本語の中で闘い、新しい何かを生み出したい
――同じ作品でも翻訳によってこんなにも印象が異なるのか、と驚きました。海外文学を鑑賞するうえで、翻訳家という存在は大きいですね。
たとえば柴田元幸さんや岸本佐知子さんの翻訳は、お二人それぞれのカラーがすごく出ますよね。原文以上に面白く感じられることも多々あって、たとえばルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』があれだけ評判になったのは、確実に岸本さんの訳文の力だと思います。それは曰く言いがたい微妙な翻訳者の個性であって、機械的に再現できるものではありません。だから世の中には色んなタイプの翻訳があっていいですし個人的には、自分の作品については、原文より面白くなるなら誤訳されても構わない(笑)。こう訳すのが正解、というのはないんじゃないでしょうか。
――円城さんの小説は「日本語への違和感」が根底にあるような気がします。今回の『怪談』もやはりそうした作品ですよね。
「普通の日本語」が僕にはどうも普通に見えないんですよ。人名を二つ並べる時は自分を後ろにするとか、色んなレベルで謎ルールが多いじゃないですか。そういうところが昔からいちいち気になる。全然普通じゃない。もっと自由に書かせてくれよと思います。それで小説を書いていると、より自分にマッチした日本語を探るような作業になるんですね。
――円城さんご自身は、作品が翻訳されることを意識して書かれていますか。
一時期はそうしようかと思ったんですけど、今はあえて訳しにくいものを目指しています。川上未映子さんの作品などを英訳しているデヴィッド・ボイドという翻訳家がいますが、彼は何でもかんでも英訳するんですよ。だったら英訳できないものを書いてやろうと(笑)。といっても歴史小説みたいに内向きの語彙を使うのではなくて、違った意味で訳しにくいものを書いていく。ユニバーサルに通用する文学を意識するより、日本語で闘っていくべきだという意識に変わりましたね。
年を取るとこうなりがちじゃないですか。西洋哲学をやっていた人が、中年過ぎてから仏教に行くとか。あれとまったく同じです。どうせ向こうの土俵では現地の人に勝てないですから、日本語の中で新しい何かを作り出さないと、と思っています。この『怪談』だってまず翻訳不可能ですよ。英訳してもハーンの『怪談』に戻るだけですから(笑)。