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社会思想との関わりから捉えた美術——『アナキズム美術史』の著者、足立元氏と考える「異端の美術」(前編)

記事:平凡社

『アナキズム美術史』の著者、足立元氏(写真:平凡社編集部)
『アナキズム美術史』の著者、足立元氏(写真:平凡社編集部)

足立元著『アナキズム美術史 日本の前衛芸術と社会思想』(平凡社)
足立元著『アナキズム美術史 日本の前衛芸術と社会思想』(平凡社)

美術のヒエラルキーからこぼれた「落穂」を拾う

——ここ数年、「アナキズム」という言葉を見聞きする機会が増えているように感じます。「アナキズム」は一般的な説明だと、「無政府主義」などと説明されます。

足立元:そうですね。ただ、「無政府主義者」というと政府に反発する人たちというように誤解を生みやすくなっていると思います。むしろ「支配されないこと」、あとは「自由」、「平等」、「相互扶助」が実現している状態と言うべきではないでしょうか。このアナキズムに関連している人物と言えば、今からちょうど100年前に活動をした大杉栄と伊藤野枝の名が挙げられます。大杉や伊藤らは支配されない世界の実現を目指しましたが、当時の政府や警察から危険因子扱いされ、虐殺されるという最期を遂げました。誰からも支配されない自由な状態を実現することは現実には難しく、むしろ不可能に近いことは明らかです。ただ、そういうなかでも、われわれ人間が政府や会社に管理されずに自立して生きていこうという社会を目指す姿勢、そこに「アナキズム」の思想を超える大きな価値があると思います。

——『アナキズム美術史』の中で取り上げられている作品や作家は、正直なところ、あまり見聞きしないものばかり、つまり美術館では観ないような作品が多い印象を受けました。

足立:わたしたちが俗に言う美術の世界は、ある種閉ざされた世界で、価値のヒエラルキーの構造から成り立っています。その構造の中に取り込まれたものに美術品としての価値が付き、美術館に所蔵され、美術展で紹介される。それはそれで構いませんし、そうした既存の価値の枠組みの中で美術を楽しむという考えもありますが、ヒエラルキーをひっくり返していく美術の楽しみ方もある。わたしが注目する表現は、そのヒエラルキー構造から見向きもされず、また、序列、最下層の階級にも入ることが許されず、はじき出されてしまったものばかりで、言い方は悪いですが、ヒエラルキー側からしてみれば、「ゴミ」のような存在でしかない。

——ゴミですか! そのようなイメージで捉えられている表現をなぜあえて研究しようと思われたのでしょうか。

足立:ゴミというのは言い過ぎなので、「落穂」としましょう。刈り取りが終わった田畑に残る「落穂」は見向きもされず、そのまま放置されていますよね。ヒエラルキーの高いところにいる側からしてみればすでに豊富な美術品を抱えていますから、そのような落穂は価値のないものかもしれません。しかし、わたしはそういうヒエラルキー的なものにあらがう思想、その思想を体現する表現についてもっと考えなくてはいけないと思っています。無駄な表現なんかないんです。その「落穂」を拾ってひとつずつ、つぶさに観てみると、いろんな発見をもたらしてくれる。例えば本書の第五章で取り上げた田代二見は、極右の頑迷な美術史家で、戦時下にシュルレアリスム弾圧の背後にいた人物だけれども、よく読むと、シュルレアリストよりもシュルレアリストっぽいことも言っている。わたしはこの世界に入ってからずっと「落穂拾い」をしているような感覚です。ただ、落穂の中から「宝物」を探し当てるというのではなく、落穂そのものを「宝物」に換えたい、そんなことを意識しながら研究をしてきました。

社会思想、政治思想の視点で「美術」を捉える

——今回の本はその前衛芸術の底流に「アナキズム」があるとし、「アナキズム」の一語には多面的なものがあるということを踏まえることを前提にして「アナキズム」の観点から美術を語る点に面白さがあると感じました。

足立:まず、その「前衛芸術」ですが、わたしは前衛芸術というものの概念を捉え直すべきではないかとずっと考えてきました。本書では前衛の語義に戻ってそれを政治的・戦闘的な意味を持つものとして論じています。原理的にいえば、前衛芸術はコレが前衛芸術ですよ、というものがなく、新たな芸術が生まれると、今存在している芸術は前衛ではなくなり、その新たに出てきた芸術、これから出てこようとする芸術は全て前衛芸術なのです。それらを一つ一つ、「落穂拾い」をしながら観ていくだけでは前衛芸術全体を理解することは難しく、別の視点で前衛芸術を構造的に捉える必要性が生じてきます。そういうことから、本書では近代日本の前衛芸術を、社会思想、とくにアナキズムとの関わりという視点で捉えることにしました。

——前衛芸術とアナキズム美術はまったく別のジャンルというか、別のアートだという印象を持たれる方が圧倒的に多いような気がします。

足立:前衛芸術は前の芸術を批判するのですが、それはアナキズムの破壊的な側面に似て、結果的に自分も国家も含めたあらゆるものへの否定と再構築につながります。つまり、前衛芸術の批判は、それまでの「日本」という国家のイメージを爆破し、眼前にある「日本」を別のものに変化させたともいえます。爆破もしくは「爆発」のメタファーは、近代日本の前衛芸術とアナキズムの両方を特徴づけるものです。その最初の爆破を試みたのが大逆事件でした。日本で初めて「アナキズム」を唱えた幸徳秋水に影響を受けた者たちが、明治天皇の爆殺を企てた事件です。本書の第一章で触れていますが、この大逆事件の頃、幸徳に関わった小川芋銭らの漫画作品は、前衛芸術というより政治活動の一環に近いもので、アナキズムと美術との最初の交差として、あるいは前衛芸術の起源として重要な意義を持っています。

小川芋銭は河童や農村の光景を描いた作品がよく知られているが、《野のゆめ》(『平民新聞(週刊)』1904年5月1日)のようなアール・ヌーヴォー調の漫画も描いている。
小川芋銭は河童や農村の光景を描いた作品がよく知られているが、《野のゆめ》(『平民新聞(週刊)』1904年5月1日)のようなアール・ヌーヴォー調の漫画も描いている。

本書では黒耀会を結成した望月桂についても言及。上図は望月桂が描いた自画像。大杉栄との共著『漫文漫画』(アルス、1922年)に掲載された。
本書では黒耀会を結成した望月桂についても言及。上図は望月桂が描いた自画像。大杉栄との共著『漫文漫画』(アルス、1922年)に掲載された。

——でも、いつしか美術・アートと政治・社会思想とを絡めながら語ることはタブーといいますか、別個のものとして存在するようになった気がします。

足立:日本では、アジア・太平洋戦争を境にして美術・アートと政治・社会思想は分断されてきました。戦前はそれらが相まって生まれた作品もあったし、観る側もそうした眼を持っていた。しかし、敗戦後、純粋な心で美術・アートを楽しみましょう、ということで、政治的な芸術に対して、しばしば冷ややかな目が注がれてきました。ようやく風向きが変わってきたのが、2011年に起きた東日本大震災以降でしょうか。そのときばかりは、反原発を意識した作品を多くのアーティストたちが手掛けていました。政治と芸術を別々のものとしてではなく、一緒に考えるのは、ヨーロッパやアメリカではごく普通のことのように思います。

 わたしにとって印象的だったのは、2017年にドイツのカッセルで開催された芸術祭「ドクメンタ14」です。その当時のヨーロッパはギリシャ危機に端を発した移民問題や金融危機が叫ばれ、このときギリシャの首都アテネでも同時開催されました。160人以上のアーティストがヨーロッパや世界を席巻しようとしている課題をテーマに新作を展示しました。

 一方で美術・アートが政治プロパガンダとして利用されてもよいのかという声もあります。描く内容やモチーフに配慮が必要なことは理解できますし、そうあるべきだと思っています。ただ、美術・アートに携わる人たちはもとより、われわれは個人のアイデンティティを語る際、政治と芸術を切り離すことは難しいと思っています。

《後編に続く》

[文=平凡社編集部・平井瑛子]

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