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社会思想との関わりから捉えた美術——『アナキズム美術史』の著者、足立元氏と考える「異端の美術」(後編)

記事:平凡社

『アナキズム美術史』の著者、足立元氏(写真:平凡社編集部)
『アナキズム美術史』の著者、足立元氏(写真:平凡社編集部)

足立元著『アナキズム美術史 日本の前衛芸術と社会思想』(平凡社)
足立元著『アナキズム美術史 日本の前衛芸術と社会思想』(平凡社)

《前編はこちらから》

共産主義者による作品は「エロ・グロ・ナンセンス」!?

——本書のよみどころは。

足立元:冒頭の「序」でしょうか。と言ってしまうと、そこだけ読んで終わり、というようにならないか不安ですが(笑)。詳しいことは本をご覧いただきたいのですが、先ほどお話したような(前編に掲載)前衛芸術のことや前衛芸術とアナキズムの関連性などを初めてこれらの領域に触れる人でもわかりやすいようにまとめました。

 あとは、プロレタリア美術と「エロ・グロ・ナンセンス」を論じた第四章ですね。共産主義者によるプロレタリア美術と聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。おそらく、クソマジメな理想主義で、労働者向けの「崇高で、偉大で、わかりやすい」ものとされてきたと思います。では「エロ・グロ・ナンセンス」からは何を連想されるでしょうか。これに対してはおそらく、卑猥で怪しげ、作家で言えば江戸川乱歩などをイメージされることでしょう。両者は一見別の次元の話であるし、特にプロレタリア美術の文脈からすれば両者は対極・対立すべき関係にあって、同時に語られることはほとんどありません。しかし実は、両者は相互に否定し合うことなく、むしろ一面では補強関係を結んでさえいたのではないかとわたしは思うのです。

1929年の第二回プロレタリア美術展に出品された大月源二《告別》(山本宣治資料館蔵)はプロレタリア美術の群衆表現や大画面を代表する油絵の現存作品として注目される作品。
1929年の第二回プロレタリア美術展に出品された大月源二《告別》(山本宣治資料館蔵)はプロレタリア美術の群衆表現や大画面を代表する油絵の現存作品として注目される作品。

——例えばどんな作品、作家にそのような補強関係を垣間見ることができますか。

足立:例えば柳瀬正夢の作品。柳瀬は機関誌の漫画でしばしば振り上げた拳骨と腕を大きく描きました。そのモチーフはそそり立つ男性器の暗喩としても捉えることができます。あとは、柳瀬の作品はブルジョアや労働者にしても、そこには男性ばかりで女性の姿が徹底的に描かれていないのです。当時の社会に氾濫していたエロ・グロ・ナンセンスの雑誌やその漫画への対抗意識があり、官能的な女性像はブルジョアの退廃的な表現として避けられていたと考えられます。

 それでもプロレタリア美術の特に漫画には、暗示的なエロティシズム、時として同胞をも滑稽に描くこと、男性中心性の徹底、それに極端な誇張によるグロテスクといった特徴が見られます。それは、しかし、明るく健康な労働者を写実的に描くというプロレタリア美術の理念とは明らかに矛盾します。こうした絵を共産主義者が描いた「こわい絵」として捉えるのではなく、欲望を持つ、人間本来の姿を表現した絵だとして観る。すると人間の葛藤が伝わってきて、味わいが出てくる。

柳瀬正夢は機関誌の漫画でしばしば、振り上げた拳骨と腕を描き、それは男性器の暗喩としても読める。《川崎造船部三千の労働者立つ》(『無産者新聞』1927年12月20日)より
柳瀬正夢は機関誌の漫画でしばしば、振り上げた拳骨と腕を描き、それは男性器の暗喩としても読める。《川崎造船部三千の労働者立つ》(『無産者新聞』1927年12月20日)より

——そう考えてみると世の中のあらゆるもの、コトがエロに見えてきます。

足立:社会批判とエロ・グロ・ナンセンスが実は共存していたことは、プロレタリア美術の表現の豊かさにつながりました。と同時に、その組織的な運動の崇高な理念に自ずと疑問を投げかけ、混乱を起こすことで、運動を内側からも崩壊させる一因にもなったと考えられます。一方で、昭和初頭のエロ・グロ・ナンセンスの流行は、その漫画家たちがプロレタリア美術を含む労働運動に刺激を受け、またそのイメージを取り込みました。そうすることでその後の軍国主義とはもちろん、戦後のいわばカストリ雑誌の時代とも一線を画す輝きと暗い闇を内包していたのではないでしょうか。こうしたことからみて、昭和初頭のプロレタリア美術とエロ・グロ・ナンセンスの潮流は、相反するどころか、互いに互いを支え合っていたのではないかと思うわけです。

前例を乗り越え、自爆し、新たなものへと生まれ変わる

——本書では前衛芸術をいわゆる実験的な表現を示す「アヴァンギャルド」としての前衛という視点で捉えず、次なる前衛が出現する前の芸術として捉えている点が斬新だと感じました。

足立:美術史の書籍や授業は、「○○様式」や「○○時代」というように後世の人間が決めた様式に則って芸術を捉えることがありますよね。すると形だけや技法だけの比較になってしまい、ぶつ切れのような見方しかできなくなってしまう。それではもったいない。もちろん、そういう見方の面白さはありますし、それによって新たな発見を得ることができます。ただ、そういう型を外し、まっさらな眼でみると、どの時代も、どの様式も底流にあるのは、何か新しいことを、他にはないものをつくりたいという願望が見えてくる。それが前衛本来の姿なのではないでしょうか。

——様式や形は変わるけれども、その中心となるもの、「前衛」の伝達は脈々と行われる。

足立:実はわたしはもともと「分子生物学」に興味を抱いていました。生命を遺伝子がつくる物質として考えると、この世の秘密を暴いていくみたいで好きでした。そんなとき、芸術における遺伝子とは何だろうかと考え、その答えが「前衛」だったのです。「文化の遺伝子」というのでしょうか。直接的なつながりはないものの、どこかでつながっている。後世にあらわれた人たちは必ずしも昔の芸術を模倣しているわけではなく、無意識のうちに表現として出てしまう。そういう中である日、どういうわけか「変なもの」が出てくる。その「突然変異」こそが大事なのだと。

——今後、アナキズム美術どのような方向で研究を続けていく予定ですか。

足立:改めて、「アナキズム美術」の指し示すものについて考え直す必要があると感じています。今回刊行した本をご覧いただければわかると思いますが、出てくる名前が男性ばかりで「女性」の存在が欠如していると感じています。そこはわたし自身の課題です。美術は男性のものだけではありません。女性でも美術本来の枠からはみ出したものを作った作家がいました。また、美術の世界は時代の最先端をいっていると思われがちですが、実際はそうではなく、男性優位のヒエラルキーがあります。さまざまな事情で芸術の道を諦めざるを得なかった女性たちがたくさんいるんです。ですから現在、女性芸術家の表現についてももっと注目しなくてはならないと痛感しています。この他にもまだまだ成熟していないアイデアも多く、もっと研究しなくてはならないこと、そして発表しなくてはならないことが山積みだと思っています。

[文=平凡社編集部・平井瑛子]

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