東大全共闘の「駒場第八本館」の記憶から 革命にも学問にも背を向けて
記事:幻戯書房
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「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。ポール・ニザン『アデン アラビア』の冒頭の言葉である。私にとってこれほど、50年前の残酷な記憶を思い起こさせる言葉はない。
当時私は、東大の教養学科の最終学年だった。しかし、卒業も就職も視野の外にあって、ひたすら大学闘争に打ち込んでいた。東大の最終学年は、ほとんど本郷キャンパスで過ごすのだが、教養学科だけは、駒場キャンパスを本拠地としていた。そのため、東大闘争において重大な事態に関与することになった。
よく知られているように、1969年の1月、東大安田講堂が機動隊の手で陥落させられ、籠城していた全共闘学生は、敗北を喫することになる。そこで東大闘争は終息したとされている。これは、小熊英二の『1968』でも実証されていることであり、現在では、そのことに異論はないといった次第になっている。
しかし、実際は安田講堂が陥落してからも、全共闘学生は、駒場の第八本館という建物に籠城し、そこで凄惨な闘いが繰り広げられたのである。この駒場第八本館は、駒場の安田講堂といわれ、私たちのような駒場全共闘の学生が、前もって籠城していた。そこへ、本郷の安田講堂から多くの全共闘学生がやってきて、立て籠もったのである。
なかでも、後に連合赤軍となるような過激な学生が外部からやってきて、第八本館死守を唱えた。私たち、本家本元であるはずの駒場全共闘は、彼らの過激な闘争にたじたじとなる始末だった。その闘争の相手はというと、機動隊ではなく、共産党の下部組織である「民青暁部隊」というものだった。
宮崎学という評論家が、民青暁部隊の創始者といわれている。だが、駒場第八本館闘争に登場した民青暁部隊は、まったくの地下組織で、由緒も何もわからない過激な暴力集団だった。その民青暁部隊と、のちに連合赤軍となるような過激学生とで、拳大の石を投げつけて闘うのだ。民青暁部隊は、どこから用意したのか投石器というものを持ち出して、ビュンビュン屋上めがけて打ってくる。
私たちのような駒場全共闘は、投石訓練などまったくしていないため、過激学生の後ろで石を運ぶ役目を果たすのが精一杯だった。三日ほどの闘争の後、こちらに重傷者が何人も出てくる事態になると、下から拡声器で「今からでも遅くはない、投降する者は通路を開けるので、速やかに退散せよ」という大音声が聞こえてきた。
そのうち終日、これが流されるようになり、一人二人と第八本館から消えていった。このまま籠城すれば殺されるかもしれないと考えた私は、機を見計らって、彼らが通路と呼ぶ出口から出ていった。周りには民青暁部隊の連中が陣を張っていて、通り過ぎるとき、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけられた。
私は、屈辱感にまみれ、井の頭線の駒場東大前駅までたどり着いた。電車に乗り、当時住んでいた学生寮のある吉祥寺に向かった。駅を降りてからどこをどう歩いたのか覚えていなかった。できるだけ路地裏のようなところをさまよっていかずにいられなかったのである。ようやく寮にたどり着くと、ちょうど夕食の時間で、何日間か不在にしていた私のことを心配して、寮生の何人かが声をかけてくれた。
食卓に座り、いつもの夕食をとったのだが、その時ほど日常生活のありがたさを感じたことはなかった。私の他にも、全共闘に属していて、大けがをした寮生がいたと聞いたのだが、彼はその後どうしたのか全く覚えていない。あるいは、その寮以外のつながりで知り合った学生だったのかもしれない。当時、そのようにして身体的な負傷や精神的な外傷を負って、退学したり、失踪したりした者が何人もいた。
あの時第八本館に残って最後まで民青暁部隊と対峙していたら、私もその中の一人に数えられたかもしれない。そう思うと、いまでも身震いする。しかし、それ以上に身震いする事態が、その後、民青暁部隊によってではなく、第八本館に最後まで残り、最後は、暁部隊を突破して脱出したとされる過激学生によって引き起こされた。
その年の4月、私は寮を出て目白駅に近い素人下宿に移ったのだが、どこから情報を得てきたのか、第八本館で知り合った過激学生数人が、私の下宿を訪れるようになったのだ。大学解体を唱え、日米安保条約下の日本国家に革命を起こすことを目指してきた自分たちは、大学闘争の敗北くらいで撤退すべきではない、新たな革命組織を編成することによって、日本全国に革命を呼び起こそうと彼らは言うのだ。
私にとって、大学闘争は自己否定と自己解体のための闘いだった。最高学府を目指して厳しい競争を勝ち抜いてきた自分の現在を決して「美しい」などと自分自身に言わせないためにも、矛盾に満ちた大学制度と戦後の日本国家を根底から覆すだけの思考を養い、それを実践に移そうと大学闘争に参加していた。しかし、彼らは、そのような姿勢自体を内側から改革していかなければならないというのだ。そのためには、自分を埋没させても悔いのない革命組織を打ち立てていくべきであるという。
私には、彼らの革命論には同調できないものがあったのだが、第八本館闘争で背を向けた後ろめたさが拭いきれなかった。そのために、反論らしい反論ができないでいるこちらを見透かしたように、連日のように説得にやってきた。昼夜を問わず、入れ代わり立ち代わり説得に当たる彼らの論理に屈服してしまいそうになった時、体力の方が限界に達した。私は救急車で病院に運ばれ、入院を余儀なくされた。
彼らは、私の入院した病院を突き止め、病室まで説得に現れるにちがいないという恐怖から、夜も寝られずにいたとき、幸いにも医師であった伯父が自分の病院に引き取ってくれた。小康を得た私は郷里に身を隠し、半年ほどを魂の抜け殻のようになって過ごした。脳裏に去来するのは、大学闘争の敗北後退学したり、失踪したりして行方知れずになった者たちのことだった。
それから1年ほどたって、連合赤軍のリンチ殺人事件とあさま山荘事件が起こった。彼らの中に、私を説得に来た者がいたことはまちがいなかった。しかし私は、事件の報道からひたすら目を背け、卒論に打ち込んでいった。辛うじて卒業をゆるされた私は、何の当てもないまま比較文学・比較文化大学院を受験した。漱石の「ケーベル先生」についての長めの小論文が課せられたのを幸いに、畏敬するケーベル先生について語る漱石のなかに『こころ』の「私」の心情に通ずるものを見出し、そこに「二十歳が一生のうち一番美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」とする「私」の残酷な記憶を重ねるといった趣旨の文章を草した。
当時助教授だった芳賀徹が、私の文章を評価してくれたためか、大学院に合格できた。しかし、私のなかの後ろめたさは、その後も消えることがなかった。私は自分を納得させるためにも、大学闘争を続けようと思った。まるで紛争などなかったかのように日常化してゆく大学院の授業を拒否し、「授業料納入拒否闘争」というのを勝手に行った。大学からすれば、たんなる変わり者の学生が、授業が嫌になり大学に来なくなったというだけのことにすぎなかった。除籍処分の通知が届くと、私は、大学にも学問にも完全に縁がなくなった。
その後、私は在野の文芸評論家として30数年、仕事を続けてきた。
古希を迎えて、革命にも学問にも背を向けてきた私自身の現在の思想をまとめてみたいと思った。ここに収められた文章のなかに「二十歳が一生のうち一番美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」とする思いが、いまでも生きているならば、幸いである。