哲学はしつこい 「入不二先生」の名講義 ――『問いを問う』書評(評者:斎藤哲也)
記事:筑摩書房
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本書には「ジグザグ運動」という言葉が繰り返し10回以上登場する。しかも太字で。
最初に登場する箇所を引用しよう。
つまり、ある時には問う側の視点に立ち、またある時には答える側の視点に立って、何度もその役割を交代しながら議論が進んでいく。いわば、議論はジグザグに進む。他の章でも、このジグザグ運動は繰り返される。
この一節は、第2章の前半、「どのようにして私たちは何かを知るのか?」という問いの意味が少しずつ明らかになっていく途上に登場する。問いの意味がはっきりしてきたので、答えを試みる。しかし問う側はその答えに反論し、答えの試みは失敗する。が、その失敗は問いの意味をより明確にする産婆役となる。
問う側あるいは疑う側と答える側を、自分ひとりの思考で行ったり来たりすることを、著者は哲学の大事な特長だと捉えている。それを表す言葉が「ジグザグ運動」なのだ。
実際、本書では「どのようにして私たちは何かを知るのか?」「どのようにして私たちは他者の心を知るのか?」「心と脳の関係とはどのような問題か?」「死んだら無になるのか、それとも何かが残るのか?」という四つの問いそれぞれをめぐって、議論のジグザグ運動がしつこいくらいに展開していく。
「はじめに」で書かれているように、本書は青山学院大学で開講されている著者の講義をベースに書き下ろされた「哲学の入門書」である。
私はゆえあって、通年でこの講義を聴講したことがある。テキストはトマス・ネーゲルの『哲学ってどんなこと?――とっても短い哲学入門』であり、本書でもネーゲルの本は適宜参照されている。
もともとネーゲルのテキストが、ジグザグ運動のように書かれている。だが、あまりに平易な語り口のせいもあって、ネーゲル本で展開される議論のジグザグが孕んでいる哲学的なポテンシャルは、浅い読み方では見過ごしてしまう。
「入不二先生」の講義は、そのポテンシャルを最高度までに掬い取っていくものだった。ジグザグ運動の輪郭を明らかにするのみならず、ジグザグの振幅もネーゲル本を超えて拡大されていく。ジグザグだったはずのやり取りは、時に直線になりかけたかと思えば、再び鋭角のジグザグを描き出す。さらにこのジグザグは、議論のフィールドをも変質させ、新たな、そしてより密度の濃い問いを増殖させていく――。
ネーゲル本からこれだけの豊穣な哲学的議論を取り出す講義に私は魅了された。かつて駿台予備校時代に、「入不二先生」の英文読解の講義に魅了されたように。
本書はそんな哲学入門の名講義をベースにしている。ただし、「授業の中でもそうであるし、さらに文章化する過程ではなおさら、興が乗ってくると、もう一歩先まで話し(書き)たくなって、入門だけには収まらなくなる」とあるように、文章化された本書には、「現実性」「形相なき純粋質料(マテリアル)」など、「入不二哲学」を特徴づけるキー概念までたびたび登場し、ジグザグ運動の振幅は講義以上に拡大している。その意味では「入門だけには収まらなくなる」どころか、読者はどっぷりと哲学に浸かることになるだろう。「あとがき」で「門をくぐったら、すぐ核心!」「入門したら、すぐ奥の院」というのも、むべなるかなである。
聴講していた当時のノートを見返していたら、「哲学的思考の特徴=しつこさ」と書かれている。哲学の奥の院を覗けるかどうかは、あなたのしつこさにかかっている。