もう一つの「現実性の問題」のはじまり 入不二基義さん特別寄稿
記事:筑摩書房
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「現実」ということばを大人はよく使うという印象が、小学生の頃の私にはあった。たとえば「おまえは子供だから、まだ現実を知らない」とか「現実はそんなに甘くない」とか、「もっと現実を見なくてはいけない」とか「これが現実なんだよ」といった類のことばである。
私は、大人たちが使うその「現実」ということばに対して、まるで「なぞなぞ」の答が分からない場合のような居心地の悪さを感じていた。「現実って何なの?」「現実はどうやったら分かるの?」と聞くと、大人たちはたいてい少し嫌な顔をした。答えてくれる場合でも、「大人になったら嫌でも分かるよ」とか「現実は思い通りに行かないものさ」とか「現実にもいろいろあってね」などと言われて、「答」は先送りにされるのに等しかった。大人もほんとうはよく分かっていないのだな、ということだけが分かった。
私は、「現実」ということを強調する大人たちに対して、特に反抗していたわけではなかった。ただ「現実」が腑に落ちないだけだった。「現実」ということばを多用する大人たちは、かなり自信ありげに(どこか子どもを威圧するかのように)そのことばを発しながらも、そこには何かに苛立っている(あるいは何かを諦めている)気配があることを、子どもながらに感じていた。そして、その大人たちの両義的な態度に呼応するかのように、「現実」ということばには、確固として不動な力感と実体のない空っぽな感じの両方が、いっぺんに含まれているように感じられた。
大人になった今の私も、子どもの頃とたいして変わりはない。周囲にはあの頃の大人たちと似たようなことを言う人はいるし、今でも「現実を知る」とか「現実は甘くない」ということがどういうことなのか、私には実はよく分かっていない。そして相変わらず、「現実」というのは、一方で(知るとか知らないとかと無関係に)「確固として不動な力感」に満ちていて、他方で(甘いとか厳しいとかとは無縁に)「実体のない空っぽな感じ」を纏っていると感じている。
このように振り返ってみると、『現実性の問題』における「無内包の現実性」「現実性という力」という主題は、「実体のない空っぽな感じ」と「不動な力感」という仕方で、子どもの頃の私に、すでに問題として宿っていたことが分かる。そして、その種子形態の「現実性の問題」は、何らかの「齟齬感」や「腑に落ちなさ」とともに、大人になってもつねに残り続けてきたことも分かる。ようやく『現実性の問題』を完成させることで、「決定的に無いという仕方で最も力強く働いている」という現実の在り方を、哲学的に深く納得し、「腑に落ちる」というところまで来ることができた。私の腑に落ちたその「現実の現実性」は、いわゆる(大人たちの言う・言っていた)「現実」とは似ても似つかないものになったけれども。
「離別と死別」のエピソードを綴った『現実性の問題』の「はじめに」は、こちらからお読みいただくことができます。▶『現実性の問題』特設Web