自分のルーツの発見は世界の発見でもある――絵本『わたしたちをつなぐたび』書評
記事:WAVE出版
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深い谷と森をぬけた先の小さな家に、母親と二人でくらす女の子。森で動物とたわむれる彼女の満ち足りた日々は、どの動物にもいる「父親」が自分にはいない、という気づきと共に、静かにひびが入る。毎日あなたに会いたいと夢見ていたらコウノトリがつれてきてくれた、という母親の言葉を無邪気に信じられるほど、女の子はもう幼くなかったのだ。
不安になった女の子は、このとき初めて、母親に問うのをやめる。その代わり、 女の子は、黙して考え、ねころがって考え、そして自分を母のもとに連れてきたというコウノトリにたずねる。コウノトリは、赤んぼうだったころに女の子をリスからあずかった、と答える。自分がどこからやってきたのか知りたい女の子は、動物たちをたずねてまわり、やがて大きな鉄の門の前で、ある男の子に出会う。
「ぼくが知りたいのは、自分がどこへ行くかなんだ」
かつての自分と同じように、誰かにもらわれるのを待っている彼の言葉を聞いた瞬間、物語は、再び動き出す。
この物語は、形としては、自分が養子であることを知った女の子の、ルーツさがしの旅である。しかし、自分はどこから来たのか、そしてどこへ向かうのか、という女の子の問いは、すべての子どもたちがおとなになる過程でぶつかる普遍的な問いでもある。
この問いが生まれたとき、ひとは、子どもから一枚脱皮する。自分の存在を眺めるもう一人の自分―自我―が生まれる。そして、そのこたえを親に求めなくなったとき、親子関係もまた一段階、脱皮する。親子というそれだけの理由で一緒にいた、いわば一体化していた二人が、別々の自我に切り離され、その関係を問い直す時期が来たのだ。
けれどもこの本は、女の子の成長物語、とまっすぐ読むにはなんだかそぐわない、不思議な光と影とに満ちている。母親と女の子の生活は、物語を読み、歌い、笑いながらも、どこかひっそりとしている。彼女たちの周りには、動植物はあふれていても、他の人間がみあたらない。満ち足りているはずの生活は、どこか寂しげだ。かといって、暗さはない。木々の緑は降りこむ陽の光を受けて、二人の生活を描く画角全体が明るい。
改めて、作品世界に漂う空気を感じながら、ページを繰り、女の子の旅路をたどってみる。すると、その道のりがおどろくほど変化に富んでいることに、気づかされる。鉄の門は、大きな街の中にある。そこから、川を経て、空を渡り、森を越え、色鮮やかな世界の細部を通過して、赤んぼうだった女の子は、母親の待つ静かな小さいあの家にたどり着いたのだ。
おそらく、この作品の一つのテーゼはここにある。彼女の住むあの閉じられた家は世界のあらゆる風景とつながっていて、私はどこからやってきたのかという問いは、実は、世界はどんなふうに成り立っているのかという問いと、同じなのだ、と。
自分のルーツの発見は世界の発見でもある、と考えてみると、この物語に漂う、静かで寂しげな明るさは、「存在」そのものの彩りにも思えてくる。それは、つながりの彩りともいえる。
ひとを含むあらゆる存在は、孤独でいながらも、世界とつながっている。森と草原と空と川と街という空間がゆるやかにつながっているように、女の子の存在は、母親や動物たちや、木々や月の存在ともまたつながっている。
時間のつながりは、行きつ戻りつの折り重なりを帯びる。女の子の生きてきた時間は、母親のもとに来る前から今にいたるまで続いている。と同時に、鉄の門で出会った男の子はかつての自分自身のようで、女の子は、記憶がない「赤んぼうの時間」に戻ってくる。さらに、男の子の「ぼくが知りたいのは、自分がどこへ行くかなんだ」という言葉は、女の子を、新しい未来へといざなっていく。その未来のさらなる向こうで待っている場所は……これ以上は、本書で実際にたしかめていただく方がよいだろう。
この本の寂しげな明るさは、ひとがあらゆるものとつながっているという事実を、甘ったるいハッピーエンドにしてしまわないという、作者の矜持のようにも感じられる。いつか女の子は、私たちと同じように、知ってしまうだろう。ひとはつながるからこそ傷つけ合うこともある、ということを。けれど、そんな悲しい予感をはらむからこそ、そのときに発見する世界のつながりは、やはり美しく優しいものであってほしい。これが、祈りにも似た、本書の二つ目のテーゼではないだろうか。
表紙に視線を移せば、リースのような弧を描いて、動物たちや月や木々、果実が並んでいる。あらゆる存在は円環になってつながり、その円環のつなぎ目に、向かい合う母親と女の子。私たちは、つながりをさがす旅をとおして、世界の美しさと共に、その環の中にいる自分を改めて発見するのだろう。