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どうして体育はあんなに偉そうなのか ――坂本拓弥著『体育がきらい』書評(評者:武田砂鉄)

記事:筑摩書房

「きらい」の理由をひとつずつ哲学すると、体育の本質が見えてくる
「きらい」の理由をひとつずつ哲学すると、体育の本質が見えてくる

体育に対する違和感

 体育がきらいだった。というより、体育の先生がきらいだった。いや、もうちょっと正確に書こう。体育の先生だからといって、自分や同級生に対して強く出るのが許容されていたり、女子に対してはなぜかフレンドリーなお兄さんっぽく振る舞ったりしているのがきらいだった。

 体育の先生は、他の科目の先生と比べても、相対的に人気者が多かった。大抵が運動部の顧問をしていたから、放課後に見かける機会が多かったし、スーツを着ている他の先生よりも話しかけやすいオーラが出ていた。自分はそのオーラに極力近づかないようにしていたが、いざという時、たとえば文化祭・合唱祭・卒業式といった類いでは、体育の先生と運動部で輝いている連中が結託するように動いていた。アレにずっと違和感があった。体育って、守備範囲が体育だけではないのだ。体育の先生が、日頃教えている運動部の部員と一緒になって合唱祭で大粒の涙を流している、そんな光景をあなたも記憶しているのではないか。もしくは、涙を流した当事者かもしれない。体育って、やたらと体育の外に沁み出してくるのだ。高校を卒業して二〇年以上が経つが、まだ違和感が残っている。

「体育」なんて好きにならなくてもいい

 本書ではまず、この本は「だから体育なんてどうでもいい」ではなく、「『体育』なんて好きにならなくてもいい」と宣言される。なんともありがたい宣言だ。体育と勝負したいわけではなく、体育を薄めたいのだ。「体育がきらいだった」と漏らすと、「苦手だったんだね」と返ってくる。跳び箱が跳べなかった、ちっとも泳げなかった、長距離走で周回遅れになって笑われた、ドッジボールで真っ先に狙われた、といったありがちな話に対しては、「苦手」という言葉がしっくりくる。でも、そこで話を終わらせたくない。どうして、体育だけ、体育周辺の言動だけ、あんなに重宝されるのか。そっちがポイントだ。

 学生時代は、「みんなより目立ちたい」という思いと「みんなと一緒でありたい」という思いが交錯する。この両方に対して、ハッキリと答えてくれるのが体育だ。走るのが速ければ目立つし、一緒に整列して行進して体育座りをすれば、みんなと一緒でいられる。

 著者が「『恥ずかしさ』と『体育嫌い』は、堅く手を結んでいる」と書いている。そう、走るのが遅いと笑われるし、みんなと同じ動作ができないと「おい、そこ!」などと指摘されて恥をかかされる。明暗が表裏一体で存在する。そこでの恥じらいは、上手に目立っている人には理解できない。そして、体育の先生は、上手に目立っている人と結託しがちなのだ。

 跳び箱が苦手な同級生が、勢い任せに突っ込んでいき、股間をぶつけて転倒する。あの時、同級生だけではなく、先生も笑っていた。申し訳ないけれど、自分も笑っていた。その彼はあの時のことをずっと覚えているはずだ。本書が繰り返している「『体育』なんて好きにならなくてもいい」という姿勢は、そんな光景に優しい。

体育を闇雲に嫌うのではなく、特別視を取り除こう

 著名なアスリートが日頃どのようにメンタルを整えているのかを綴った書籍が軒並みベストセラーになっている。常人離れした運動神経を持つ者同士がぶつかり合い、一瞬の隙も許されない緊張状態で試合に臨んでいる選手のメソッドを、私たちのような一般人が活用できるはずがない。でも、できると思っているから売れる。本人も、できると思っているからこそ伝える。これも体育が影響しているのではないか。体育って、ずっと特別視されてきた。その体育を闇雲に嫌うのではなく、特別な視点を取り除こうと試みる本書の存在は新しいし、嬉しい。

 学生時代に読みたかった。放課後の教室で読んだ上で、部活動を終えた体育の先生と、職員室の前で向き合いたかった。

坂本拓弥『体育がきらい』(ちくまプリマー新書)書影
坂本拓弥『体育がきらい』(ちくまプリマー新書)書影

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