「学校の問題」に現役教員は何を感じているのか? 『学校するからだ』矢野利裕×『在日韓国人になる』林晟一の"職員室"対談(前編)
記事:晶文社
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――『学校するからだ』『在日韓国人になる』には、学校にまつわるエピソードや思索が折り込まれています。お二人は現在同じ学校に勤務されていますね。今日は教員として学校をめぐる問題をどう見ているか、お話しいただければと思います。
矢野 最初に読者のみなさんに向けて自己紹介を。僕はもともと教員志望で、文学部の日本文学科に進学して教員免許を取りました。と同時に、大学でカルチャーや評論の面白さに目覚めて、ふたつの興味をあわせる形でライターとして仕事をするようにもなっていました。紆余曲折あって志望通り国語科の教員になって、今は講師時代を含めると15年目ですかね。同時に、今もライターとして評論を書くことがあります。
林 僕は政治学科出身で、学部時代には教員免許を取りませんでした。教職に絶大な興味はありましたが、国籍の壁を感じていたことが大きいです〔※在日3世の林さんは大学時代まで「朝鮮」籍、現在は韓国籍〕。修士課程を終えたあとは出版社で編集者として働き、ソウルに留学しました。日本に戻って博士課程へ進学しましたが、いよいよ教職志望が強くなって教員免許を取りました。今は地歴公民科の教員として、歴史や政治を中高生に教えてます。
矢野 学校をめぐる問題はたくさんありますし、それへの解答を誰も出せていない状況にありますね。
林 矢野さんと僕は、私立の中高一貫校という教育環境にあります。公立の先生方が抱える課題を僕たちが一般論として語ることは慎まなくてはいけません。あくまで自分が今の現場で感じていることをお話できればと思います。
矢野 はい。僕は、教育の現場にいて感じるリアリティと、それが学校の外で取り沙汰されるときの語られ方にギャップを感じることが多いです。たとえば、時に不合理でもある学校独自ルール「ブラック校則」。もちろん、よくないことです。なかには人権に抵触するものまである。とんでもないことです。ただ、ブラック校則がある、ひどい学校だ、教員が悪い、生徒がかわいそう――というように語られるとき、それが事実であるにせよ、そこでは生徒の主体性の部分が抜け落ちてしまうと感じることもあります。
――どういうことでしょうか?
矢野 そういう語られ方をするとき、生徒側の反発や反抗を含めた主体性がなかったことになって、ただブラック校則に苦しむだけの「悲劇」の存在としか見られなくなってしまうのではないか。たとえば、ルール改正を求めて交渉したことやその姿勢、記録をなくしてしまうことになりかねません。『学校するからだ』にも書いたのですが、勤務校では、生徒たちにとって不合理な規則が、生徒たちの訴えかけによって変わった例がありました。
林 遅刻の取りあつかいに関する訴えでしたね。「電車の遅延により始業時刻に遅れた場合は遅刻とみなさないが、バスの遅延の場合は遅刻とみなす」といったルールがありました。ところが、ある方面を運行するバスのダイヤが改まり、特に雨の日に影響を受ける生徒が増えてしまった。そこで生徒会が、ある方面を運行するバスの遅延に限っては、遅刻あつかいとはしないよう学校へ訴えかけました。けれど、根拠があいまいということで却下された……という。
矢野 あのときの生徒会が偉かったのは、そこであきらめなかったこと。次年度にこの課題を引き継いで、何十校もの学校にアンケートを取るなどして、現在の規則が合理的ではないという訴えを煮つめて再提出したんです。
林 アンケートに回答してくれた他校の生徒会や先生たちから、「頑張ってください、うちの生徒会の励みにもなります」という激励の手紙が複数届きました。学校をまたぐ連帯感のようなものに触れた思いでした。
矢野 その結果、雨の日については当該バスの遅延を認め、遅刻としないという規則変更を達成できた。そして僕がすごいなと感じたのは、その時、生活指導主任だった林さんの行動でした。規則改正に関する職員会議のとき、事前に調整をしてましたよね?
林 そうでしたね(笑)。
矢野 「落とし所を探る」というのはけっこう難しくて、どうしても自分の考えを訴えたくなるし、その考えが通ると思ってしまいます。「生徒会が言ってることはもっともだから、認めてあげればいいじゃないか」と言ってしまうけど、それだけでは通らないんですよね。それぞれの立場でそれぞれの考えがあります。一方で林さんは政治学の人だから、「利益の配分」を考えて職員会議の場に立っていました。
林 それぞれの立場の教員が受容できそうなラインを手探りしながら、事前に話をしていました。たとえばある先生にとって認めがたかったのは、「バス遅延を『すべて』認めること」。だから、1年目に生徒会が出していた案のひとつ、「雨の日だけ認める」という方向で折り合えるよう努めた。そうしないと、生徒会の粘り強い行動が水の泡となってしまいます。
矢野 個人的に一番美しいと感じたのは、それら全てが「生徒会の功績」として位置づけられたことです。事前会議でも、中心となって活動していた生徒会の生徒が発言する機会があって、教員と生徒が実際に議論しました。そのことをふまえ、教頭から後日「あれは今年度の生徒会の一番の功績ですね」という発言が出てきました。そういう「歴史」が、規則の変更をめぐるやりとりの中で生まれています。
林 今思えば、『在日韓国人になる』でも検討した「歴史する」(doing history)ことの一例ですね。生徒たちが、積み重ねた行動をもとに前向きな歴史を織りなしたのだと思います。あの代の生徒会にとって大きな成果だし、今日まで、歴代の生徒会はポジティブな改革を重ねてきています。
――なるほど、それが「ブラック校則」に関する矢野さんの問題意識、〈生徒側の主体性がなかったことになってしまう〉という話につながるんですね。ブラック校則に苦しむ生徒のストーリーが多く語られる一方、校則やルールと向き合い、それを変えるに至った生徒のストーリーが語られにくい。そのことに問題意識を持っていると。
矢野 林さんの本で紹介されていたエピソードに印象的な部分があります。在日コリアンが戦後、居住していたバラック街から立ち退かされる。この立ち退きを、知識人は「在日の悲劇の歴史」として評することもあった。でも細部を見れば、当時住んでいた在日コリアンは、はったりをかましながらも粘り強く交渉し、不利益が少しでも小さくなるように動いていた。そこの主体性や、彼らが彼らの中で持っていたヒストリーをなかったことにしたくないなと。
林 よく言われることですが、みずから歴史を構成するということは、ややもすると排外主義的な歴史修正主義(否定論)につながりかねません。けれど同時に、「やればできるんだ」といった自己有能感を高める歴史を織りなす経験は、重要でしょう。さまざまな形で不当な扱いを受けている人はもちろん、学校を生きる生徒にもあてはまることだと思います。
――最近、「インフルエンサーによる弱者攻撃に共感する子どもが多い」というような話が話題になっています。学校では、能力があれば評価されるという能力主義の裏返しとして、能力がないとレッテルを貼られた人びとに冷淡になっている面は感じられるでしょうか。
矢野 一般化できるかわからないものの、能力主義にドライブはかかっているように思います。LGBTQなど性的マイノリティの存在に関しては、「多様性」という言葉がよくも悪くもキャッチコピー的に浸透していることもあり、その意味では、10年前よりもリベラルな意識が進んでいると言えます。一方で弱者に対して、排外主義的な部分を感じるときがあります。在日コリアンや外国人労働者、ホームレスや生活保護受給についてのトピックになると、「税金を収めてないのに」みたいな反応をする生徒を見かけます。
――正当に納税の手続きをふんでいることが大半なので、誤った知識であることは大前提として、そういう言葉が出てくることに驚いてしまいます。
林 「税金を収める」と「ものを言う」ことが等価交換になっているようなところも気になります。
矢野 ジョン・ロールズの「無知のヴェール」〔※社会的な公正について考えるための思考実験。自分がどの程度の能力を有しているかわからない「無知」を想定することで、公平な社会のルールについて考えることができる、という考え方〕なんかもいちおう授業で紹介するのですが、どこまでリアリティを感じているか心もとないところがあります。もしかすると、私立校ゆえかもしれない。経済的に余裕のある家庭の子が多くて、その生活が当たり前だから、そうでない人の生活になかなか実感が持ちにくいのかもしれません。
林 もしそのように考える子がいるのだとすると、国というものに「文明的」な余裕がなくなってることが一因かもしれません。酸いも甘いも受け入れようとする度量が目減りしているのではないか。「国民」の絆をイマジネーションの産物だとする「想像の共同体」という言葉があります。これに従えば、「日本人だ」という意識は想像の産物にすぎない。でも、「こんなに抑圧されている人がいるのは、日本人として恥ずかしい」というふうに、弱者とされる人をめぐる課題を他人事としないためには、国民の想像力はあんがい重要だと思うのですが。
――その想像すら、しがたくなりつつあるのかもしれないと。
林 矢野さんがふれた福祉をめぐる排外主義(福祉ショーヴィニズム)とは裏腹に、日本に期待していない高校生も一定数います。社会を見渡せば、「日本脱出」さえ議論される時代ですから。日本は移民国家の道を歩み続けるはずですが、たとえば韓国などと比べると、東南アジアの人びとからうらやましがられる国では必ずしもありません。労働環境の面で魅力が乏しかったりします。実は日本人の一部も、同じような空気を共有しているのかもしれません。
林 能力主義に関連して気になるのは、教育現場で「〇〇力」を掲げすぎていること。「学力」でさえあやふやなところがあるのに、「説明力」「傾聴力」「コミュニケーション力」「ソーシャルスキル」などは、いっそう捉えづらいし測定しづらい。何をどう達成したらその力が身についたといえるか、これがまた難しい。吃音などの特性を持つ子、他者と独特のかかわり方をする子にとって、ハードルはいっそう高いかもしれません。
矢野 人がどういうことができるかって、「誰といるか」「その相手を信頼しているか」といった関係性によって変容すると思っています。でも「〇〇力」と捉えた瞬間に、圧倒的に個人「のみ」に紐(ひも)付いてしまう。そして教育現場が個人の成績を出す以上、個人に紐付けなければいけない構造になっています。教育と能力主義の関係については、たしかに考えてしまうところです。そういえば生徒で社会福祉への問題意識を持った子がいたんですが、その生徒は起業をしたいといって、起業家を多く輩出している大学に進学しました。社会貢献がしたいと感じたときに、まず進むべき道として出てくるのがベンチャー組織であることが印象的でしたね。現代的な発想だと思いました。
――功罪あるとして、「〇〇力」を社会も学校も生徒も求めている中、求められる教え方も変わっているんでしょうか?
矢野 そうですね、発表やグループワークなどのアクティブラーニングを積極的にやっている教員もいます。ただ、僕と林さんはいわゆる講義形式を中心にした、言うならばオールドスクールなタイプかもしれません。いわゆるアクティブラーニングは自由度が高くなりますが、そういう空間では、おうおうにして体と声がでかい生徒が目立ちます。コミュニケーションの得意・不得意も全面化してしまいます。アクティブにやるならそのあたりを気にしておきたいな、とは思っています。そこまで踏まえてうまくやる人もいますけどね。
林 アクティブラーニングに比べ、講義形式が「古い」とか「廃れた」わけではないです。一斉授業を受ける生徒が「受け身」だというのは誤解です。まったくそんなことなくて、心のなかで共感したり、反対に、批判の刃を磨いてたりします(笑)。授業後に、生徒が「今日の授業、響きました」って伝えにきたり、反対に、「この解釈はちがうんじゃないか」と反論されたり。先生の授業を一から十まで真に受けるほど、生徒は「考えない動物」じゃありません。もちろん、「考える」ことを誘うための入念な授業準備が必要なのですが。
矢野 アクティブラーニングは「自分で調べて自分で発見する」という体験ができますが、そのぶん自分の内側や経験に規定される側面もあります。ある思考を自分でつかんだという経験を得られるという点で意義を感じますが、その一方、自分が全然考えたこともないような発想や言葉と出会う体験がなかなか出てこないという歯がゆさを感じるときもしばしば。もちろんグループワークで友人から思いもよらない意見が飛び出すということもあるかもしれませんが、とはいえ、外からやってくる経験や体験を示すためには、講義形式はいまだ有効だと考えています。
林 意外なことが生徒に響いたりするんですよね。僕は授業の中で、歴史に関連させながら人文・社会科学のさまざまな理論を紹介しますし、全部をテスト範囲とします(笑)。歴史と絡めつつカラフルな知見を得て、将来専攻する学問へつなげてほしい。歴史の授業のイメージがくつがえされた生徒は最初とまどいますが、だんだんと歴史と理論のコラボを受容してくれます。去年は、「人間関係で悩んでるとき、先生の授業で習ったことを行動に移しました」と生徒が伝えてきました。
――その生徒さんは何をしたんでしょうか?
林 アメリカの奴隷制と南北戦争に関する授業のとき、ハーシュマンの「離脱・発言・忠誠」を紹介したんですね。みずから属する集団が抑圧的であるとき、そこを抜け出すか、問題を改めるよう声を上げるか、あるいはあえて集団に適応し忠誠を誓うか。その生徒は、友人のグループでぎくしゃくが絶えない中、「私は『EXIT』しました」と。解答用紙の余白にメモがあったんです。ていねいにも「離脱」の英語表現を使って。「やるな〜!」と思い、赤ペンでコメントを長々と返しました。
矢野 こういう言葉やフレームワークって、外部からの一撃としてあったほうがいい。僕も林さんもそういう実践を日々目指していると思います。そのために、つねに先端的な学問の成果を追っているということもあります。中等教育だからこそ最先端でいる、という気概は持っていたいです。
林 そうですね。僕もどこまでできているか心もとないですが、いろいろな学問を学び直しながら動向をフォローするよう努めています。生徒は、こちらが心底楽しんでる授業のときは、いっしょに知のダンスを踊ってくれます。生徒がはっと息をのむ声が聞こえるときって、本当にあるんです。とすると、そのダンスは、なるべく学問の肝にふれるものでありたいなと。