現在と過去との不断の対話――ルーシー・デラップ著『フェミニズムズ』(井野瀬久美惠)
記事:明石書店
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本書は、イギリスの歴史研究者ルーシー・デラップのFeminisms: A Global History (Penguin, 2020)の全訳である。時間的には18世紀後半から現代に至る250年間、すなわち近代以降を網羅し、空間的にはヨーロッパ、南北アメリカ、アジア、アフリカ、オーストラリアやニュージーランドなど、文字どおり地球全体にわたる。英文で400頁近い大著だが、各ページを貫く著者の姿勢は実に明快である。欧米中心、中産階級中心、白人中心に語られ、定着し、再生産されてきたフェミニズムの過去を複数形で読み直し、私たちの「現在地」を見直そうというのである。
従来、フェミニズムもその歴史も、欧米諸国、わけてもイギリス、アメリカの教育を受けた中産階級の白人女性を中心に語られてきた。映画『サフラジェット』(邦題『未来を花束にして』)に描かれた、エメリン・パンクハースト率いる女性社会政治同盟の戦闘的で過激な参政権獲得運動はその典型である。固定概念となってきたこの「大文字・単数形のFeminism」を、著者デラップはきっぱりと否定する。思想であり運動、そして文化でもあるフェミニズムは、欧米諸国で生まれて世界各地に広がっていったものではない。そのルーツは世界中にあるのだと著者はくり返し語り、その実例を次々と示していく。そこでは、フェミニズムの思想や活動が、地域性や時代性、他の知的・文化的運動との結びつき方によって、大きく表情を変える。フェミニズムはいつも同じ顔をしているわけではない。重要なのは、それが議論される文脈である。
実際、本書冒頭で紹介される英領黄金海岸(現ガーナ)の地元新聞に人種主義批判の一文を投稿した無名のアフリカ女性をはじめ、本書には従来のフェミニズムの歴史には登場しない女性たち、あるいは「フェミニスト」として紹介されたことのない人物たちが数多く登場する。彼女/彼らのなかには、「フェミニズム」という言葉を知らない人だっていたかもしれない。なかには、フェミニストと呼ばれることを拒否しながらも、フェミニストを称する人たちと価値観や優先順位を共有する人たちもいる。確かなことは、いずれの女性(時に男性)も、各々が生きる時間と空間で、近代を彩る資本主義、帝国主義、植民地主義、人種主義、あるいはファシズムや共産主義などといったさまざまな思想や運動、それらが創り出す独自の文脈と、「女性であること」を結び合わせる主体であることだ。
著者デラップは、誰がフェミニストか、何がフェミニズムか、その厳密な定義には消極的であり、「女性の権利や地位向上をめざす」とか、「女性の保護や平等を実現する」など、意図的に曖昧にしているように思われる。フェミニズムを、「人類の半分以上の連帯をめざす、人類史上、これ以上ない意欲的な運動」であるという一方で、「すべての女性を網羅する」というビジョン(展望)が、もうひとつのビジョン(すなわち幻)でもあり、「すべて」という包含性が、フェミニズムが議論される時空間とその文脈に応じて、個別具体的な「排除」を生み出していることに注意を促すのである。
それゆえに、ある地域、ある時代に育まれたフェミニズムと、別の地域や時代に芽生えたフェミニズムとの関係性は、多様で複雑である。共鳴するところもあれば、軋轢を起こすこともある。文脈次第で達成すべきミッションも異なり、それが互いに矛盾することもありうる。フェミニズムが抱える問題意識も議題も多様、だからフェミニズムズ、なのである。
それと共振するのが、副題の「グローバル・ヒストリー」だ。グローバル・ヒストリーという言葉には、単に世界各地を網羅するという以上に、従来の歴史研究の枠組みへの批判が込められている。20世紀末以降、歴史研究の大きな潮流となっているグローバル・ヒストリーの根底には、近代ヨーロッパが展開した歴史叙述の枠組み、「国民国家」をゴールとする一国史への批判がある。ヨーロッパの経験をヨーロッパ以外の地域にあてはめようとするヨーロッパ中心主義を脱して、世界各地の空間相互の関係性を捉え直そうというのがグローバル・ヒストリーである。ゼバスティアン・コンラート『グローバル・ヒストリー』がくり返し述べるように、文明も国家も、社会も家族も、もちろんそうした単位を構成する個人も、それ自体で独立して存在しているのではなく、他とのさまざまな相互作用を通して考えられるべきものなのである。
デラップは、グローバル・ヒストリーの特徴として、「接続」「絡み合い」という言葉をあげているが、まさしくその視点でフェミニズムの歴史を捉えれば、従来のように「発展」としての歴史観、その起点に欧米諸国を据えた「フェミニズムの波」という見方はありえないだろう。フェミニズムは、第1波(1890年代〜1920年代)、第2波(1970年代〜80年代)、その後の第3波、あるいは先に触れたポストフェミニズムなど、時系列で、伝播した地域の順番に描ける物語ではないのである。
この姿勢は、本書の章立てに端的に示されている。夢、思想、空間、物、外見、感情、行動、歌という8つの抽象的なテーマ(いずれも複数形)のもと、展開される各章の物語は、時代も地域もあちこち行き来する。地域や時代が異なればフェミニズムの理解が異なるだけではなく、異なる世代に類似や共感が認められ、そこに微妙な含みも指摘される。
たとえば、近年注目を集める「感情史」の研究成果が生かされた第6章、「フェミニストの怒り」という節には、明治初期の岸田俊子と、1970年代にウーマンリブ運動を牽引した田中美津が並んで紹介されている。田中美津が連合赤軍の永田洋子に示した理解にも言及がある。田中自身の経験(学生運動のなかの性差別)に基づくとはいえ、「永田洋子はわたしだ」という言葉は、決してストレートに現代の#MeToo運動につながるものではない。それでも、田中の人生を追ったドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』に触れるとき、問い直されているのは、フェミニズム以上に、現代日本そのものである気がする。
「フェミニストの怒り」で紹介されている日本の話をもう少し続けたくなるのも、彼女たちが議論される文脈に別の重要な論点が絡み、日本の今を考えさせるからである。田中美津に続いて紹介される出来事、東京国立博物館の「モナ・リザ」スプレー事件(1974年)は、それから半世紀後の2023年、芥川賞を受賞した市川沙央『ハンチバック』でも言及されている。難病で背骨が極度に曲がり、人工呼吸器と車いすで生きる主人公・井沢釈華はまさしく著者の分身。受賞の記者会見で、市川はいみじくも、同書を「怒りだけで書いた」と語った。その怒りが、「モナ・リザ」スプレー事件を起こした米津知子への共感につながる。ポリオの後遺症で右足に補装具をつけ、右足をひきずる米津は、(混雑が予想されたとはいえ)障害者を締め出した博物館への激しい怒りから、防弾ガラスで保護された絵画「モナ・リザ」に向けて赤いスプレーを噴射した。米津の怒りは、彼女の行為を「美人のモナ・リザへの嫉妬」という言葉に回収した当時の男性文化人らとは真逆に位置する。だが、私たちはこの言葉を、「今から半世紀も前の話じゃないか」と笑い飛ばすことができるだろうか。フェミニズムの立ち位置とそこに交差する障害の問題――実はそれは、後述するように、本書の著者デラップの問題意識とも深く重なっているのである。
かくのごとく、第6章冒頭の日本の事例を読んだだけでも、重なる言葉や事実、気になることやもっと知りたいことがいくつも浮かんでくる。こうして心と頭が刺激されるのは、全8章のテーマがいずれも、誰もが一言、いやそれ以上語りたい気にさせるものであり、対話の入り口になりうるからだろう。
だからこそ、フェミニズムとは、useful(役に立つ)ではなく、usable(使える/使い道がある/使い勝手がいい)なのだと、著者は言う。フェミニズムの歴史がどう「使える」か、これまでフェミニズムは何に使われてきて、今日ではどんな使い道があるのか。最初に提示された見方・考え方を盲信せず、「現在と過去との不断の対話」のなかで何度でも修正や変更が可能であるという「使えるフェミニズムズ」。本書を特徴づける「使える」という言葉もまた、8つの章が実践している。
もうひとつ、「接続」「絡み合い」というグローバル・ヒストリーの見方とも重なって、著者が本書で頻繁に使っている概念に、「交差性(intersectionality)」という言葉がある。
「交差性」とは、ジェンダー、人種や民族、国民、階級、セクシュアリティなど、さまざまな属性が組み合わさり、相互の影響が重複する部分には、それぞれの属性に対する抑圧や差別、偏見とは異なる独特の状況が生じていることを示す概念である。19世紀半ばのアメリカで白人女性中心の参政権運動を批判した黒人女性、元奴隷のソジャーナ・トゥルースの「私は女ではないの?(Ain’t I a Woman?)」は、交差性の例としてよく引き合いに出される。
フェミニスト法学者のキンバリー・クレンショーが論文「人種と性の交差を脱周縁化する」(『シカゴ大学リーガル・フォーラム』1989)で初めて使って以来、この言葉は、人種主義や植民地主義、家父長制や資本主義などが生み出す権力構造や社会関係を分析する概念として、学術の世界のみならず、政策提言などでもよく見かける。それは、あるカテゴリー、この場合は「女性」が一枚岩ではないこととともに、「黒人女性」の経験は、黒人男性への人種差別と白人女性への性差別を合わせれば理解できるものではないことを意味している。属性が抑圧や差別、偏見のカテゴリーとして交差するところでは、「二重の危険」のごとく、特別な状態が起こっているのである。
二重どころではない。たとえば、幼いころに両親とともにカリブ海の英領トリニダードからアメリカ、ニューヨークに移民し、長じて共産党員となり、1950年代の反共産主義運動、いわゆる赤狩り(レッドパージ)を潜り抜けた黒人女性、となると、交差する抑圧や差別、偏見は幾重になるだろうか。「外国人による反米行為」で逮捕・投獄をくり返した彼女は、1955年にアメリカ国外追放となるも、故郷トリニダードが受け入れを拒否したため、結局、宗主国イギリスに送還され、その人生に植民地主義という新たな文脈が接続されることになった。共産党内部の性差別への失望から、英領カリブを中心に移民のネットワーク構築に立ち上がった彼女は、イギリスにおける人種差別や人種暴動を乗り越えるべく、故郷トリニダードの文化に目を向けた。この女性――本書にもたびたび登場するクラウディア・ジョーンズは、フェミニストとしての顔よりも、ノッティングヒル・カーニバル(今なおヨーロッパ最大を誇るストリート・カーニバル)の生みの親として知られている。ジョーンズの物語は、いくつもの属性が交差する状況が、単に抑圧や差別の複合を作り出すだけではなく、この交差点から拓かれる新たな可能性があることをも教えてくれる。
(本書解題より抜粋、一部を修正)