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お守りの起源とは。そこにこめられた願いから呪術と信仰の諸相をひもとく――『お守りを読む』

記事:春秋社

古代の人々はどのようにして得体の知れない疫病から逃れようとしたのだろうか(写真はイメージ。画像はhttps://photo53.com/より)
古代の人々はどのようにして得体の知れない疫病から逃れようとしたのだろうか(写真はイメージ。画像はhttps://photo53.com/より)

お守り誕生の契機となった疫病の蔓延

 2019年冬、中国の湖北省武漢市で発見された新型コロナウイルス感染症は、瞬く間に世界中を席巻し、いまだ終息せず、ウィズコロナ時代に突入したといえよう。遡ること1500年、日本では初めて感染症の大流行に見舞われた。それは、遣新羅使によって持ち込まれたといわれる痘瘡(もがさ。天然痘のこと)で、九州北部から畿内へ、そして全国的に広まり、多くの尊い命を奪った。その後、天然痘をはじめとする原因不明の感染症は疫病と呼ばれ、人々が恐れおののく存在となっていった。

 790年、秋から冬にかけて、長岡京および畿内にわたり天然痘が激しい勢いで蔓延し、貴賤上下を問わず、病に倒れる者が続出した。長岡京旧跡から「蘇民将来之子孫者(そみんしょうらいのしそんのもの)」と墨書された小さな呪符木簡(じゅふもっかん)が出土している。天然痘流行との関連を鑑みるに、この呪符木簡を携帯することで、厄難を逃れようとしたのではないかと考えられる。この呪符木簡は医療行為もない時代において、死の不安に駆られた人々にとって恐ろしい疫病を駆逐してくれるものだったと考えられ、お守りのルーツといえるだろう。

 呪符木簡に記された蘇民将来とは『備後国風土記』によれば、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が南海の旅の途中、宿に困った折に一夜の宿を快く提供し、食事を振る舞って歓待した人物として描かれている。恩義に感じた素戔嗚尊は蘇民将来に、後世、疫病が流行った時には、「蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に着けた者は疫病を免れる」と茅の輪の法を伝えたという。現在も、この故事にならって京都・八坂神社の祇園祭で授与される厄除け粽(ちまき)やお守りには「蘇民将来之子孫者」の一文が記されている。

八坂神社の茅の輪守り(左)と厄除け粽(右)
八坂神社の茅の輪守り(左)と厄除け粽(右)

古代人が考えた疫病の退散法と予防法

 天然痘は平安時代にも頻繁に流行し、猛威をふるうことがあった。たとえば、『蜻蛉日記』には974年に藤原道綱が罹患して重篤な状態になったこと、太政大臣藤原伊尹が1日のうちに2人も息子を亡くしたことなどが記されている。そのなかで、平安人たちは天然痘に一度、罹ると抗体が作られることを経験的に学んだようで、前回の流行から20年もの間隔があった994年に再び流行の兆しがみられると、抗体を持たない者が多いと考えられたため、人々は大いに危惧したのであった。

 平安時代には天然痘に加え、赤斑瘡(あかもがさ。麻疹のこと)と瘧病(わらわやみ。マラリアのこと)が大いに恐れられた病であった。麻疹は感染初期に赤い発疹が現れるが、病後に痘痕(あばた)も残らないなど、当時、すでに天然痘との相違点は認識されていた。1025年には天皇をはじめ、中宮、親王までに及ぶほど驚異的な感染力を伴う、麻疹の大流行があった。また、瘧病は『源氏物語』のなかで光源氏が患った病として有名で、加持力のある聖を訪ねて病気平癒を祈っている。このころから、天皇や貴族たちは疫病に感染すると、加持祈祷によって平癒を願うのが常となっていった。

 平安時代初期あたりから、疫病発生の原因は政争などで非業の死を遂げた者の怨霊や疫神(えきじん)の仕業であろうと考えられるようになった。そこで、863年に神泉苑において催された祭事を嚆矢として、朝廷主催の「御霊会(ごりょうえ)」を行って怨霊を鎮めることに努めた。その後、869年には祇園祭の契機となる御霊会があり、疫病流行の有無を問わず年中行事として、毎年、行われるようになった。

 奈良時代に中国から伝来した習慣は、平安時代には宮廷の年中行事に組み込まれるようになり、今なお、伝承されているものも少なくない。たとえば、正月の屠蘇、七種粥などを飲食して、人間に悪影響を及ぼす邪気を祓い、無病息災・延命長寿などを希求した。さらに、六月祓(みなづきのはらえ)や追儺(ついな)など、半年に一度、大がかりな祓えの儀式が行われたほか、邪気から身体を護る方法の実践は生活の一部として浸透していった。

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