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梁澄子(ヤンチンジャ)×辛淑玉(シンスゴ) 「慰安婦」サバイバー宋神道(ソンシンド)さんとの思い出を語る(前編)

記事:平凡社

梁さん(左)と辛さん(右)
梁さん(左)と辛さん(右)

 宋神道さんは1922年11月24日生まれ。1938年、満16歳のときにだまされて中国・武昌の「慰安所」に連れていかれ、以後7年間、中国中部の戦線で「慰安婦」とされました。戦争が終わったとき、顔見知りの日本軍人の「結婚して日本に行こう」という言葉に一縷の望みをかけて一緒に来日するものの、男は帰国のために宋さんを利用しただけでした。その後、宮城県の女川市で年長の在日朝鮮人男性とくらしますが、71年にその男性が亡くなり一人ぐらしになりました。

 1993年日本政府に謝罪を求めて提訴。2003年、最高裁判所は宋さんの被害事実、国の責任も認めながら訴えを退け、敗訴が確定しました。

 2011年3月11日の東日本大震災の津波で自宅が流され、東京に移住。2017年に亡くなりました。

98年、韓国で「慰安婦」被害者たちがくらす「ナヌムの家」を訪ねたときに、チマチョゴリを着てうれしそうな宋さん。撮影:李文子 提供:梁澄子
98年、韓国で「慰安婦」被害者たちがくらす「ナヌムの家」を訪ねたときに、チマチョゴリを着てうれしそうな宋さん。撮影:李文子 提供:梁澄子

「おめえ金あるか?」

梁澄子(ヤンチンジャ):宋さんが裁判をすることになって、私たちは「在日の慰安婦裁判を支える会」をつくって活動を始めました。裁判の口頭弁論があった日には報告集会を開いて、ゲストをお招きしていました。宋さんは東北弁の早口でズバズバものを言ううえに、独特の言葉の使い方もするので、宋さんと対談するのはすごくたいへんで。宋さんが何を言ってるのかが聞きとれない人や、やられっぱなしでほうほうのていの人、話がかみあわない人もいて。でも辛淑玉さんは宋さんと馬があって、2回来ていただきましたよね。

 当時辛さんがよくテレビに出ていて、宋さんはすごいファンだったんですよ。「シンスボ、あのおなごはいいな」とよく言っていました。宋さんは、辛淑玉さんのことを「シンスゴ」じゃなくて、「シンス」って言うんです。私のことは「ヤンジン」。宋さんの裁判の代理人の一人、弁護士の金敬得(キム・キョンドク)さんは「全斗煥(ぜんとかん)」(独裁者として知られる1980~88年韓国の大統領)と呼ばれていました(笑)。

左から辛淑玉さん、宋神道さん、梁澄子さん。「3人並んで、なにがおかしいのか大笑いしています」(梁さん)。撮影:柴﨑温子 提供:梁澄子
左から辛淑玉さん、宋神道さん、梁澄子さん。「3人並んで、なにがおかしいのか大笑いしています」(梁さん)。撮影:柴﨑温子 提供:梁澄子

 「支える会」の記録を読みなおしたら、宋さんが「金曜日、おめえのことをガタガタ言ってた豆カラスみたいなおなごはだれだ」って、『朝まで生テレビ』で辛さんを攻撃していた女性のことをすごく怒っていて。「あいつ、やっつけてやりたかったんだ」って。

 宋さんにとって辛さんは、自分の言いたいことを言ってくれる痛快な女であると同時に、守ってあげたい対象だった。それはすごく感じました。「テレビで堂々としているけど、その裏でどんなに大変なんだろう」って。宋さんはそういうところ、本当に鋭い人でした。

辛淑玉(シンスゴ):宋さんとの思い出はたくさんあるんですが、私が仙台で仕事をしたときに、宋さんが会場に来てくれたことがあります。私の顔を見て、「おめえ金あるか?」って。きっと宋さんの生活が大変なんだろうと思って「山のようにあるよ」って答えたら、また「おめえ金あるか?」って。「あるからいくらでも言って。一千万でも一億でも」って答えたら、「おめえ金あるか?」ってまた聞くわけ(笑)。そして、「おめえたいへんだろ。小遣いやろか?」って。

 あのとき、500円でも1000円でももらっとけばよかったな、って後から思ったんです。そうすれば、なにかのときに宋さんにお金を渡すこともできるから。そんななつかしい思い出があります。

梁:宋さんはほんとうに辛さんが大好きだったし、辛さんに何かしてあげたいと思ってましたよね。

危機的な状況になったら、日本人のふりをしないと生きていけない

辛:私が宋さんのことをちゃんとやろうと思ったのは、ある討論番組でボコボコにやられたことがあったからなんです。保守派の男性から「(「慰安婦」運動は)金目当でしょ」みたいなことを言われて、私なりに一所懸命反論したつもりだったけど、ボロ負けしたんです。

 収録が終わっても立てなくて、スタジオでつっぷして泣いちゃった。泣いて泣いて、宋さんの顔がいっぱい頭に浮かんだんです。「バカはだめだ。闘いきれない。勉強しなくちゃ」と思って、そこから少しずつ戦時性暴力の問題を勉強し始めたんです。

東日本大震災で被災した宋さんと再会した「支える会」のメンバー。中央が宋さん、宋さんの腕を持っているのが梁さん。撮影:川田文子 提供:梁澄子
東日本大震災で被災した宋さんと再会した「支える会」のメンバー。中央が宋さん、宋さんの腕を持っているのが梁さん。撮影:川田文子 提供:梁澄子

辛:東日本大震災で津波の被害が報じられて、私はすぐに女川に宋さんを捜しに行ったんです。ほんとにたくさんの避難所を回ったけど捜せなかった。東京に戻ってきたら梁さんが「宋さんいたわよ」って連絡くれたんだよね。「どこに?」って聞いたら、私が捜しに行った体育館だった。

梁:あのときはとにかくあらゆるところに電話して、宋さんの通名を伝えて探してもらいました。通名、ようするに日本名ですね。通名で地元でくらしていましたから。                                                                                                                                                       

辛:宋神道という本名で裁判をした女性が、通名で避難所にいるというのは想像もしなかった。でも考えてみたら、「(裁判をして)国からお金をとろうとした」と宋さんに嫌がらせをしていた近所の人たちとも同じ避難所に入ることになる。危機的な状況になったら、日本人のふりをしなければ生きていけないということですよね。あのときは、いろんな意味で切なかったね。

後編につづく

(2023年12月2日、新宿にて。構成:市川はるみ)

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