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ヴァンパイアと「遊ぶ」研究――『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』のねらい

記事:幻戯書房

伝説にはじまり、小説、映画、TVの映像作品など、ヴァンパイアものはいつの時代も人びとを魅了してきた文化である。
伝説にはじまり、小説、映画、TVの映像作品など、ヴァンパイアものはいつの時代も人びとを魅了してきた文化である。

ヴァンパイア・ブームきたる!

『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』は、企画から出版までにまる二年かかっている。その間ずっと、昨今のヴァンパイア需要の高まりが念頭にあった。いわば「新ヴァンパイア・ブーム」を経験している時代に、翻訳と解説を通じて、まだ耳目を集めていない部分に光を当て、開拓していきたかったのである。そうした意識のもとで書かれた本書は、他の書籍とあわせて読むことでより面白く読めるだろう。

 ヴァンパイア需要の高まりは、種村季弘編『ドラキュラ ドラキュラ』やポール・バーバー『ヴァンパイアと屍体』の新版が出たことからもわかるし、昨年の八月から、光文社古典新訳文庫でテオフィル・ゴティエ『死霊の恋』、レ・ファニュ『カーミラ』、ストーカー『ドラキュラ』の新訳が出版されたことにも表れている(今後、光文社からドイツ語圏のヴァンパイア小説が出ることを期待する読者も多いはずだ)。『甘美で痛いキス 吸血鬼コンピレーション』にも携わっている山口雅也の企画で、国書刊行会から『吸血鬼ヴァーニー』全訳の一巻目が出たのも記憶に新しい。新紀元社からは、「怪奇幻想の文学」シリーズの第二巻『吸血鬼』が出ているし、東京創元社は、東雅夫編『吸血鬼文学名作選』や夏来健次/平戸懐古訳『吸血鬼ラスヴァン』を出している。

文学作品、マンガ、評論など、筆者のヴァンパイア学関連資料の一部。
文学作品、マンガ、評論など、筆者のヴァンパイア学関連資料の一部。

 これらは、過去作のリバイバルや企画・対談本だが、近年の創作ものとしては、日本の小説では恩田陸『愚かな薔薇』、佐藤亜紀『吸血鬼』、佐原ひかり『人間みたいに生きている』などがある。漫画では、コトヤマ『よふかしのうた』、盆ノ木至『吸血鬼すぐ死ぬ』などが有名だし、海外ではジョルジュ・ベスが『ドラキュラ』をグラフィック・ノヴェル化した。映画ではエミリー・ハリス『カーミラ』、クリス・マッケイ『レンフィールド』(非常におすすめ)、パブロ・ラライン『伯爵』の他、NETFLIXなどの配信サイトで検索をかければ数えきれないほどある。

筆者が収集しているヴァンパイアものの映画作品の一部。
筆者が収集しているヴァンパイアものの映画作品の一部。

ジョルジュ・ベスのグラフィック・ノヴェル『ドラキュラ』(Georges Bess: Dracula)と『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』(西宮市の喫茶Panにて撮影)
ジョルジュ・ベスのグラフィック・ノヴェル『ドラキュラ』(Georges Bess: Dracula)と『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』(西宮市の喫茶Panにて撮影)

 こうした需要のなかで『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』を出すことができて、嬉しく思う。七篇も収録したのは、少しでも多くの作品を現代に蘇らせることが、訳者のヴァンパイア学者としての責務だと感じたからだし、普段あまり目にしないようなヴァンパイアの姿を知ってもらうことに、「眩暈」的面白さ(後述)があると考えたからだ。収録作品は決して有名ではなく、文学史上でもほぼ忘れ去られているが、十九世紀初頭のヴァンパイア観をありありと伝えているので、訳者解題含め、楽しんでいただけると自負している。現代のヴァンパイア作品と比較してみるのも面白いだろう。特に、当時すでに「串刺し公」ヴラド三世を題材にしていた『ワラキア怪奇譚』は一番興味をそそるはずだ(ドラキュラ伯爵のモデルがヴラド三世ではないことを解説した「訳者解題」も)。

 ドイツ語圏に限らず、この時代の西欧には、一般に知られているよりもずっと多くの、ヴァンパイアを扱った作品が存在した。そして、本書に登場するヴァンパイアたちは、現代に流通するイメージを部分的には保ちながらも、意外な姿を見せてくれる。詳しくは「訳者解題」を見てほしいが、手短に言えば、当時はヴァンパイアが核となるイメージを文学上で確立しつつあった時代なのだ。十八世紀のセルビアで起きた二大事件によって西欧に知られるようになったヴァンパイアは、新聞や論文などで議論されていく。その動きのなかで、ヴァンパイアとはどういうものなのか、という理解が少しずつ広まっていく。そして、そうした共通理解の成立(十九世紀初頭では、血を吸う、死んで蘇る、セルビアの事件etc.)と並行して、ヴァンパイアは文学に進出するのである。ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』(1819)が、この共通理解を完成させた。以後、ヴァンパイアは、吸血や蘇りという核となる特徴を中心に、当時の作家たちによって様々な設定を付け加えられていく(現代の数々の作品と同じように)。その具体的な事例については、本書を読んでいただければと思う。

「遊び」としてのヴァンパイア研究

『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』の読者のなかには、編訳者の略歴に驚かれた方もいるかもしれない。ヴァンパイアの専門家とは何か? 専門的研究が可能な分野なのか? そんな研究をする意味があるのか? ヴァンパイアについての知識など積みあげて何になる?

 ヴァンパイアを研究するとは、どういうことだろう。それは、例えば、映画『魔人ドラキュラ』でベラ・ルゴシの目がなぜ強調されるのかを探ることだ。あるいは、萩尾望都『ポーの一族』のエドガーの星のような目について書くことだ。あるいは、ジョン・ポリドリのルスヴンや、ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュのカーミラや、ブラム・ストーカーのドラキュラが偽名を使っていることを掘り下げてみることだ。あるいは、坂本眞一『#DRCL』が、なぜSNSのハッシュタグを模したタイトルを冠しているかを考えてみることだ。あるいは、「多様性」を謳う現代に、ヴァンパイアを通してその概念自体を分析・吟味してみることだ。

レ・ファニュ『カーミラ』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』など新訳版(光文社古典新訳文庫)も入手しやすく、英米の古典ヴァンパイアものも『吸血鬼ラスヴァン』が昨年刊行されたばかり。ヴァンパイア文学にマンガ、映像作品と、ヴァンパイアものはいくらでもあり、ヴァンパイア学は誰にでもすぐ始められる。
レ・ファニュ『カーミラ』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』など新訳版(光文社古典新訳文庫)も入手しやすく、英米の古典ヴァンパイアものも『吸血鬼ラスヴァン』が昨年刊行されたばかり。ヴァンパイア文学にマンガ、映像作品と、ヴァンパイアものはいくらでもあり、ヴァンパイア学は誰にでもすぐ始められる。

 ヴァンパイアを研究するとは、ヴァンパイアそれ自体の調査のみに終始するのではなく、ヴァンパイアを様々な領域に接続しながら/接続することで、その諸領域とヴァンパイア自体を「読む」こと、それらに自分なりの解釈や意味を新たに与えていくことだと考えている。もちろん、ヴァンパイア自体の調査も基礎を担う大事な作業だが、「何年にどこで○○という小説が書かれて、そこではヴァンパイアはこのような特徴を持っている」とか、「甲という作家のヴァンパイアを扱った小説の文言が乙という作家にも見られる」など、事実の集積だけに終わっては、もったいない。では、どうするか。

 ここで一つ、自己分析もかねて、筆者の研究観をロジェ・カイヨワの「遊び」論を手がかりに記してみよう(『遊びと人間』、多田道太郎/塚崎幹夫訳、講談社、2013)。かつて、ある研究発表を聞いたときに、自分のなかにある既成の考えがひっくり返された。これが、今でも筆者のなかに根をはっている。こうした経験を提供する研究を、カイヨワの概念を借りて「眩暈」的研究と個人的に呼び、理想としている。

 確かに、そもそも研究は遊びとは違うのではという指摘はあるだろう。だが、ヨハン・ホイジンガ曰く、文化は遊びのなかで始まったのである(『ホモ・ルーデンス』、里見元一郎訳、講談社、2023)。また、ブライアン・ボイドは、ストーリーテリング(フィクションに限らない)という人間の行為の起源を、進化による適応の結果に求め、ストーリー含む芸術全般に、人間の進化に重要な機能があると論じている(『ストーリーの起源』、小沢茂訳、国文社、2018)。ボイドは、芸術を「認知的な遊び」と定義している。研究とは語ることでもあるのだから、研究もまた一種の認知の発展に繋がる遊び――文化の重要な構成要素である遊びなのだと考えて差し支えないだろう。

ヴァンパイア研究の「眩暈」的面白さ

 さて、カイヨワは、遊びを「パイディア」と「ルドゥス」――端的に言えば無秩序寄りか秩序寄りかという遊びの態度――という二極に基づきながら四分類した。そのなかの一つに、「眩暈(イリンクス)」としての遊び、「知覚の安定を破壊」するものとしての遊びがある。カイヨワが想定しているのは肉体的な運動に関わる眩暈(ダンス、スキー、ブランコetc.)だが、「知覚の安定を破壊」するという特性を、筆者は既成概念の転覆に結びつけたいのである。

 もちろん、研究という行為自体は、「ルドゥス」、つまり計算や組み立て、技などを基盤とした秩序的な性質を持つものだし、カイヨワは「眩暈」と「ルドゥス」の結合を否定している。しかし、どのような研究であれ、「パイディア」――「気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散」――が垣間見える場合がある。例えば、もっと簡潔に書ける文章で技巧をこらしたり、思いつきのようなアクロバティックな連想を提示したり、口調に熱がこもったり、個人的経験や感情・動機を(意識的にせよ無意識的にせよ)反映させていたりすることがある。また、研究の行為それ自体と、研究成果を読むという行為は別のものである。「ルドゥス」を通してできあがったものを、「パイディア」の領域にある「眩暈」を感じながら読むことはありうるだろう。

 ヴァンパイア研究の面白さは、「眩暈」的研究と相性がいいところにある。ヴァンパイアに対する現代の我々のイメージは固定化されているため、既成概念の転覆という行為と相性がいいのだ。ヴァンパイアのイメージを見直す=転覆することで、ヴァンパイアを通じて、様々な領域の既成概念を転覆することだってできるはずだ。ヴァンパイアは、人々に好まれ、様々な場面で用いられているのだから。

「眩暈」的研究の重要性は、それが「競争(アゴン)」的研究――これも個人的な命名――とは違う点にある。「競争的資金」という表現に代表されるように、研究は基本的に競争的側面が強く、ホイジンガがソフィスト的な遊びととらえたものに近い(ホイジンガ、第九章)。競争性が高くなると、競争内の評価基準に認められる研究ばかりが優遇されうる。それは、多様性を犠牲にしかねない、制度的でアカデミックな研究である(ピーター・バークは、大学という組織の保守的な面を指摘している(『知識の社会史』、井山弘幸/城戸淳訳、新曜社、2004)。もちろん、「競争」的研究やアカデミックな研究に「眩暈」を起こさせるものがないというつもりはないし、それらすべてが多様性を軽視しているというつもりもない。しかし、大学も学会も組織である以上、資金獲得などの競争からは逃れられない。特に、社会に役立つ部分が見えづらい人文社会系の研究は弱い立場にあるから、なおさらである。

「遊び」=研究を役立てる――『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』の試み

 しかし、「社会に役立つ」といっても色々なかたちがある。大竹文雄は、2018年のnoteで、人文社会系の研究への支持を社会にどう訴えていくべきかを、わかりやすく納得いくかたちで説明している。ポイントは、社会貢献を①目に見えやすいものと、②目に見えにくいものに分類し、双方の面でアピールすることで社会を納得させ、一定の自由を研究に確保することである。「眩暈」的研究は意外性を長所とし、人々の知的満足度を高めるという点で社会に貢献できる(②)――もちろん、「競争」的研究のすべてが知的満足度を与えないと主張する気はない――が、だからといって①が不可能というわけでもない。ヴァンパイア研究を例にとれば、先述したことは①でも②でもある。『#DRCL』は、ストーカーの『ドラキュラ』をポスト・トゥルースの観点から現代の社会に繋げた読み方を可能にするし、ヴァンパイアたちの曖昧なアイデンティティ(偽名使用など)は、ジグムント・バウマンのリキッド・モダニティ論の解像度をあげてくれる。つまり、現代社会の問題などに新たな視座を提供できる(現代的意味ばかり意識するのも芸がないが)。

 競争内の基準に照らす場合、優劣という価値判断を避けることはできない。これは言い方を変えれば、判断者が判断対象に絶対的権力をふるうような区別である。だから、ある程度なら構わないが、行き過ぎると「競争」的研究は危うさを見せる。優劣に関わらない「眩暈」のあるなしは、それに比べてゆるさがある。ホイジンガ曰く、遊びそのものは善くも悪くもなく、真・善・美と違って否定されえない。だから、「競争」も「眩暈」も等しく遊びなら、どちらでもよいという指摘もありうる。また、「眩暈」を基準にした研究なら完全に競争から逃れられ、より多様性を得られると考えるのは単純に過ぎるだろう(そもそも、競争は絶対悪ではない)。それでも、優劣という価値判断の存在感が薄い「眩暈」的研究の可能性に目を向けてみたい。「眩暈」にも堕落する危険性はあるとはいえ(カイヨワ、四章)、研究を「眩暈」的な「遊び」から出発させたいのだ。今回、編訳した『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』は、筆者の手になるヴァンパイア・エッセイ『血色の研究』(『Brunnen』、郁文堂)と同じ、そうした試みの一環である。

 今後も、ヴァンパイア関係の書籍を出す機会に恵まれれば嬉しい。翻訳、モノグラフ、論文、エッセイ、何にせよ、それらを通じて、「眩暈」的な快とともに、様々な問題を考えるきっかけを提供するかたちで社会に貢献できればと考えている。ホイジンガは、遊びから文化が生まれたのではなく、遊びのなかに文化があった、文化は遊ばれた、とする。それにならうなら、努力して遊びを研究にしようとするのではなく、遊びがすでに研究の萌芽であるような状態が望ましい。

 筆者はかつて、『DEATH STRANDING』というゲームをとても楽しく「遊んだ」のだが、本作を世に出したKOJIMA PRODUCTIONSの小島秀夫は、自社のシンボル・キャラクターを「ルーデンス」と名づけた。彼は、「遊び」が持つ創造的側面を評価し、強調する。同じように、「遊び」=研究が持つ創造的側面を重視したい。事実の集積だけではそこまで創造的ではない。それは材料を集めるという基礎作業だ。そこで終わってはならない。資料や論文にあたっての地道で地味な調査を疎かにしないだけではなく、得た情報をいかに繋げ、拡張し、遊び、創造的に使うか、この点を意識しながらヴァンパイアを研究することこそ肝要なのだ。

ジョルジュ・ベス『ドラキュラ』と『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』(西宮市の喫茶Panにて)
ジョルジュ・ベス『ドラキュラ』と『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』(西宮市の喫茶Panにて)

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