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『マハーバーラタ』の倫理 S・ジャイシャンカル『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』[後篇]

記事:白水社

S・ジャイシャンカル著『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』(白水社刊)は、インド外交の役割から今後の展開に至るまで、現役の外相がその「手の内」を明かし、米中日を中心に変貌著しい国際関係の見取図を示す。
S・ジャイシャンカル著『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』(白水社刊)は、インド外交の役割から今後の展開に至るまで、現役の外相がその「手の内」を明かし、米中日を中心に変貌著しい国際関係の見取図を示す。

[前篇「訳者あとがき」はこちら]

 

【著者動画:How Mahabharata, Hanuman Shape India’s Diplomacy? EAM Jaishankar explains strategic value of Epics】

 『マハーバーラタ』は国家論に関するインドの思想をもっとも鮮明なかたちで凝縮したものであることは疑いがない。『実利論アルタシャーストラ』とは異なり、統治に関する実践的原則をまとめた一覧表ではない。むしろこれは、現実の状況とそれに対する独自の選択を活き活きと描写したものだ。叙事詩という性格のため、『マハーバーラタ』では他の文明に属する敵が大きさのみならず深みや複雑さという点でも矮小化されている。責任感と神聖な任務が持つ重要性に焦点を当てたこの叙事詩は、人間の弱さを描いたものでもある。リスクをどう取るか、信頼をどこに置くか、犠牲をどう捧げるかといった国家の統治をめぐるジレンマが物語のあちこちで記されている。政策を実行する際に必要な勇気について描かれているのは、もっとも有名なパートである『バガヴァッド・ギーター』になるかもしれない。だが、他にも戦術的妥協や独りよがりなプレイヤーの活用、政権転覆の企て、バランス・オブ・パワーの確保といった繰り返し起きる政治現象の要素もある。われわれが今日抱いている懸念はこの古代の物語の中に反映されており、二国間の不均衡を解決するために対外的環境を活用するという面ではとくにそうだ。戦略的競争や制度の抜け穴の利用など当然とされた行為は、言説のコントロールや力としての知識の重視といった、より現代的な概念と共存している。

Holy Bhagavad gita and The Holy Veda the oldest scriptures of Hinduism on wooden textured background[original photo: WESTOCK – stock.adobe.com]
Holy Bhagavad gita and The Holy Veda the oldest scriptures of Hinduism on wooden textured background[original photo: WESTOCK – stock.adobe.com]

 『マハーバーラタ』は、紛争に発展する競争をめぐる議論や決断についての書でもある。現代の国際政治は、そこで描かれているような破滅的状況とは大きくかけ離れている。だがそれにもかかわらず、今日の意思決定にとって教訓となる類似点があるのも確かだ。マハーバーラタ時代のインドもまた多極世界であり、有力国が互いにバランスをとり合っていた。だが、ひとたび主要な2つの極の間の競争が当事国だけに収まらなくなると、他の勢力も必然的に立場を明確にせざるを得なくなる。いま文字どおり同じことが再現されるわけではないが、関係国によるコストとベネフィットの検討方法は、戦略を学ぶ者すべてにとって有益だろう。舞台の状況と同様に、そこで下された選択も現代の世界と似通っている部分がある。なかでもとくに重要なのはクリシュナ神の物語で、戦略における導き、外交におけるエネルギー、課題に対処していくなかでの戦術的英知を教えてくれている。

 『マハーバーラタ』で描かれるジレンマとしてもっとも知られているのは、重要な政策について、それに伴ってもたらされる影響にひるむことなく実行に移す決意に関わるものである。具体例として挙げるのは、何と言ってもパーンダヴァ五兄弟のうちもっとも秀でた戦士であるアルジュナが戦場に赴くときの物語だ。自信喪失を経験した彼は、自身の利益と反対の立場をとる一族に立ち向かう決意を固めることができなかった。アルジュナはクリシュナに説得されて自らの任務に取り組むことになるのだが、彼の行動には、国際関係のプレイヤーとしての政府にも当てはまる基本的な側面がある。これは費用便益分析を無視してよいと言っているわけではない。だが、歩むべき道がわかっているにもかかわらず、決意の欠如やコストを恐れて実行に移されないということがときどき起こるのだ。

『マハーバーラタ』からの一場面。アルジュナはクリシュナに教えを請い、バガヴァッド・ギーターを授かる。[photo: Wellcome Images – CC BY-SA 4.0]
『マハーバーラタ』からの一場面。アルジュナはクリシュナに教えを請い、バガヴァッド・ギーターを授かる。[photo: Wellcome Images – CC BY-SA 4.0]

 アルジュナとは異なり、今日のインドに生きるわれわれは、未知のものがもたらす恐れにおびえるだけでなく、既知のものがもたらす心地よさに安住することもしない。現代的な用語で「ソフトステート」という言葉があるが、これは国が必要なことを実行できないか、したがらないことを指している。アルジュナのケースは、当然ながら力不足という状況ではない。これはまさに、現代のインドも時折直面する苦境なのだ。たとえば長期にわたるテロとの戦いでは、われわれは想像力の不足やリスクに対する恐れによって制約を受けることが少なくない。この点は変わり始めているかもしれないが、他国が示した決意のレベルに見合ったものにすることが重要だ。アルジュナはその後、正義の戦士として戦いの場に赴くのだが、そこで示される自己正当化の意識について考える必要がある。[中略]

Giant Krishna-Arjuna chariot made of bronze metal, situated at Brahma Sarovar Kurukshetra, Haryana, is a big charm for the pilgrims.[original photo: mds0 – stock.adobe.com]
Giant Krishna-Arjuna chariot made of bronze metal, situated at Brahma Sarovar Kurukshetra, Haryana, is a big charm for the pilgrims.[original photo: mds0 – stock.adobe.com]

 戦略家の大半が依拠するのは過去の戦争であって、未来の戦争ではない。その意味において、アルジュナは戦いが始まる少し前に重大な選択をした。アルジュナも、そしていとこでライバルのドゥルヨーダナも、クリシュナの都ドヴァーラカーに赴き、彼から協力を取りつけようとしたのだ。アルジュナが到着したのは後だったが、寝台の下に座り待ち構えていたことで、目覚めたクリシュナに先に会うことができた。クリシュナの軍を派遣するか、それとも丸腰だがクリシュナ本人の出馬を求めるかと問われ、アルジュナは後者を選んだことでドゥルヨーダナを驚かせた。クリシュナには形勢を変える力があるという認識が彼の判断の背景にあったことは明らかだ。

 これは、国家安全保障における競争力の強化を検討するうえでの教訓になる。大半の戦士がそうであるように、ドゥルヨーダナはオーソドックスな考え方をしていたが、アルジュナは既成概念にとらわれない考え方とは何かについても理解していた。インドにとって重要なのは、国の能力について確立された分野を軽視することなく、同時に世界でこれから起こる事態に対し適切に備えておくことなのだ。それは人工知能(AI)やロボット工学、データアナリシスやデータセンシング、先端材料、サーベイランスといった分野がそれに当てはまるだろう。とくに他者をどう活用するかが成功の鍵だとすれば、相手の能力を最新かつ確かな情報に基づいて評価することが不可欠になってくる。アルジュナはクリシュナの価値を理解していたが、ドゥルヨーダナはそうではなかった、というわけだ。[中略]

アルジュナ(射手:左)とクリシュナ(御者:右)の像。「戦争とダルマについての二人の対話」を象徴的に表わしている。[photo: Devajyoti Sarkar – CC BY-SA 2.0]
アルジュナ(射手:左)とクリシュナ(御者:右)の像。「戦争とダルマについての二人の対話」を象徴的に表わしている。[photo: Devajyoti Sarkar – CC BY-SA 2.0]

 『マハーバーラタ』は倫理を説く物語であると同時に、力をめぐる物語でもある。この2つの重要な要素を調和させているのは、クリシュナの選択なのである。インド人はより大きな貢献をなさんとしているが、激動する世界に向き合っていくなかで自らの伝統に依拠する必要がある。それは、今やバーラトとしての性格を強めているインドにおいてこそ可能になるものだ。万人の万人に対する闘争が展開される世界で選択をなしていくなかで、今こそわれわれは独自の回答を示すべき段階に入っている。倫理的な大国であることは、「インドならではの手法インディア・ウェイ」の1つの側面にほかならない。

『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』(白水社)目次
『インド外交の流儀 先行き不透明な世界に向けた戦略』(白水社)目次

 

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