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社会的デザインの出発点――V.パパネック『生きのびるためのデザイン』解説 山崎亮

記事:晶文社

「人はだれでもデザイナーである。アップルパイを焼くことも、田舎野球の組み合わせを決めることも、子供を教育することも、すべてデザインである。デザインとは、意味ある秩序状態をつくり出すために意識的に努力することである」との強烈な一節から始まる『生きのびるためのデザイン』。
「人はだれでもデザイナーである。アップルパイを焼くことも、田舎野球の組み合わせを決めることも、子供を教育することも、すべてデザインである。デザインとは、意味ある秩序状態をつくり出すために意識的に努力することである」との強烈な一節から始まる『生きのびるためのデザイン』。

本書との出合い

 私が大学でランドスケープデザインを学んでいた頃の恩師は、とても厳しい人だった¹⁾。デザイン指導の時間になると、教授室に置かれた大きなテーブルにすべての資料を並べ、対面に座る先生に向かって緊張しながら説明する。先生の背後には壁一面の本棚があって、膨大な蔵書がその知識量を象徴するような威圧感を生み出していた。

 ある日、準備不足にもかかわらず先生の指導を受ける時刻になってしまった。必死で自分のデザインを説明するが、あらゆる角度から厳しい指摘が続き、どう返答しても「火に油を注ぐ」ばかりだった。時間がとても長く感じられた。指摘が多すぎて、もはや全く頭に入ってこない。意識が朦朧とする。瀕死の状態で先生から目をそらすと、背後の本棚に『生きのびるためのデザイン』という文字を見つけた。「この状況から生きのびるためのデザインが知りたい」。これが本書との出合いである。

 先生が帰った後、さっそく手に取ってみた本書の内容は、「先生の厳しい指導から生きのびるためのデザイン」ではなかった。我々人類が、この地球環境のなかで生きのびるためのデザインに関する本だった。刺激的な言葉と興味深い内容に惹かれ、すぐに書店で本書を買い求めた。

 本書を読んだ結果、何をどうデザインすべきなのかがはっきりわかった。おかげでそれ以降、先生に打ちのめされることが無くなった。その意味で、本書にはとても感謝している(もちろん、厳しく指導してくれた先生にも感謝している)。本書の原題は「Design for the Real World」。直訳すれば「現実世界のためのデザイン」だ。それを「生きのびるためのデザイン」としてくれたからこそ、私は本書と出合うことができた。訳者にも感謝している。

 時代背景

 本書は、著者であるヴィクター・パパネックが48歳になる1971年に出版された²。その3年前、1968年には世界的な学生運動が起こり、スチュアート・ブランドによる『ホール・アース・カタログ』やバックミンスター・フラーの『宇宙船地球号操縦マニュアル』が出版された。地球環境に対する意識が高まるとともに³、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』などの出版によって、従来の「詰め込み型教育」が批判された時期でもある。こうした時代の影響が本書の各所に見られる。

 また、本書が出版された翌年にはローマクラブによる『成長の限界』が、さらに翌1973年にはエルンスト・シューマッハーによる『スモール イズ ビューティフル』や、イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』が出版された。19681973年の5年間は、立て続けに「これまでのやり方じゃダメだ!」という本が出版された時期だったといえよう。まさにその渦中に『生きのびるためのデザイン』が出版されたのである⁴

 1973年に生まれた私は、『生きのびるためのデザイン』ほか「これまでのやり方じゃダメだ!」という価値観がじわじわと広がっていく時代とともに成長した世代である⁵。前時代を否定するこの種の価値観は、すぐに広まったわけではない。さまざまな軋轢、対立、批判、対話が繰り返され、しかし徐々に「大切なことだ」と認める人が増えていったのである。そんな時代を生きた私にとって、本書の内容は共感できることだらけだった。すでに本書を書いたときのパパネックの年齢を超えてしまったが、いまだにデザイナーとして私が取り組むべき課題のほとんどはここに示されていると感じる。

 本書の内容

 本書は前半と後半に分かれている。前半はデザインの現状を概説する内容で、後半はデザインの可能性について述べる内容となっている。いずれも6章ずつで全12章。大学の講義で扱うのにちょうどいい分量である。パパネック自身、この内容を多くの学生に知ってもらいたいと願っていたはずだ。巻頭の献辞も学生に向けられている。

 前半でパパネックは、誰もがデザイナーであること、デザインを物単体として見ないことなどを指摘したうえで(1章)、デザインの歴史的な変遷を説明しながら、それがいかに商業に取り込まれてしまったかを示している。そして、商業や消費社会に取り込まれたデザインが、物自体を注視しすぎるがために、材料がどこから強奪されているのか、売れ残った商品がどう廃棄されているのか、購入された商品がどれだけ素早く「古臭い物」にさせられているのかに気づきにくくなっていると指摘する。いわゆる「資源の浪費と廃棄物の増大による地球環境の悪化」という問題である(2章)。その背景として、デザイナーがアート分野から影響を受けて「自己表現としてのデザイン」を目指しすぎたことが指摘される(3章)。デザイナーは、自己表現をしたり、売れる商品をデザインして企業を儲けさせたりすることよりも大きな社会的責任を負うべき存在である。それは環境汚染や経済格差を生み出す危険性を持つという責任だけではなく、それらを解決する力を持っているという責任でもある。だからデザイナーはデザインする対象物だけを見るのではなく、その周囲にある材料、労働者、販売形式、値段など、さまざまなことを考慮しなければならない。また、国内の富裕層に向けた製品だけをデザインするのではなく、社会的な課題を感じているあらゆる人のためのデザインにも携わるべきである。さらに、先進国に向けたデザインだけでなく、開発途上国における社会課題を解決するようなデザインにも挑戦すべきである(4章)。そんなデザイン業界における大きな課題は「使い捨て」のためのデザインである。このことについてデザイナーが確たる哲学を持たなければ、デザインの対象領域を広げれば広げるほど地球環境は悪化することになってしまう(5章)。以上より、現在のデザイナーには社会的な視野が不可欠であり、道徳的な思考が必要である。また、デザインの対象物を実際に使う利用者が参加できるデザインプロセスを検討しなければならない。そのためには、常に現場へ行って感じたり考えたりしなければならない。しかし、現在のデザイン教育は全くそんなことを意識していない(6章)。

 以上が「デザインの現状」について述べた「前半」である。そのうえで、「デザインの可能性」について語る「後半」が続く。デザイナーの仕事は社会課題の解決だが、そのためにはまず社会課題の発見が必要である。これまでに誰も気づかなかった社会課題を発見し、それを明確にし、そして解決すること。この流れ自体が創造的なデザインのプロセスなのである。そのためには幅広い分野についての知見が必要となる。また、創造的な課題解決策を生み出す訓練が必要となる。こうした力を持つデザイナーは、自分の仕事の10%だけでもいいから社会的なデザインに携わる時間を作り出すべきだ(7章)。一般的なデザイナーは何をデザインしているのか。いま使われているものが古く見えるように外観を新しくするための製品デザイン、その製品を入れるための箱のデザイン、その箱の包み紙のデザイン、それを入れる紙袋のデザイン。大半のデザイナーが商業的なデザインに携わっているが、社会的な領域にはまだまだデザインの対象が残っている。それらは、低開発地域のためのデザイン、障がい者のためのデザイン、医療のためのデザイン、実験器具のためのデザイン、極限状態における人間生活のためのデザイン、環境回復のためのデザインなどだ(8章)。社会的なデザインを検討するとき、環境破壊や格差拡大の要因を生み出してしまった商業的なデザインからヒントを得るのは難しい。むしろ、学ぶべきなのは自然である。動物や植物の形態的特徴、あるいは生態系のつながりやバランスなどには、社会的なデザインのヒントが詰まっている(9章)。それはつまり、デザインが経済の論理に従うのではなく、生態系の論理に従うということである。そのうえで、医療や食料のデザインなど、人間が生きていくためのデザインに携わるべきである。生態学を考慮した農業のデザインに携わるデザイナーがいてもいいはずだ(10章)。こうしたデザイナーを育てるための教育は、1920年代のバウハウス時代とは違ったものであるべきだろう。創造的な発想を生み出すことができるという能力を中核にしつつ、さまざまな分野についての興味や知見を持つ「万能人(ジェネラリスト)」を育てるべきだ。デザインのことしか知らない「専門家(スペシャリスト)」を育ててはならない。デザインの専門家が増えてしまうと、製品単体を見て周囲の生態系が見えない人が増えてしまうからだ。そうではなく、さまざまな分野を統合的に扱うことのできる万能人的デザイナーを育てるべきである(11章)。もはや多くの住民が専門家になりつつある。自分が知らない分野には興味を持たない。自分が買うものが環境を破壊しようが格差を拡大しようが関心ない。だからこそ、デザイナーは万能人であるべきだ。そのためにデザイナーは、①幅広い社会課題を把握しておくこと、②チームをつくって社会的なデザインに携わること、③全く新しいデザイン教育を展開すること、という3点に取り組む必要がある(12章)。

 本書の構造

 本書をすでに読み終えた人にとって、上記のような解説は無用だったかもしれない。あるいは、読者の印象とは違ったまとめ方になっていたかもしれない。そう感じているとすれば、その印象は正しい。本書は、私がまとめたようにひとつながりの物語のように書かれてはいない。むしろ、話題はあっちへ行ったりこっちへ来たり、さまざまな分野を縦横無尽に移動する。これは、パパネックが本書を「専門家」ではなく「万能人」に向けて書いたからこそ生じた特徴だといえよう。

 本書の結論部分で、パパネックは専門家的デザイナーと万能人的デザイナーの思考方法をまとめている。それによると、専門家的デザイナーの思考方法は「ひし形」プロセスなのに対して、万能人的デザイナーのそれは「蝶ネクタイ形」プロセスなのだという(図1と図2)。例えば、専門家的デザイナーが「新しい椅子をデザインして欲しい」と依頼されたとする。デザイナーはまず、さまざまな椅子の事例を調べるだろう。使い捨ての椅子、障がい者のための椅子、学校用の椅子、ボートの椅子、演奏用の椅子など、さまざまな事例を集める。集まった事例を分析し、取捨選択し、組み合わせ、融合させ、最後にはひとつの「新しい椅子」をデザインする。これが「ひし形」プロセスである。

図1 専門家的デザイナーの思考プロセス
図1 専門家的デザイナーの思考プロセス

 一方、万能人的デザイナーは「新しい椅子をデザインすることで社会課題は解決できるのか」と疑う。むしろ彼らは、さまざまな社会課題を集めることから始める。資源搾取の問題、廃棄物増大の問題、貧困連鎖の問題、学習環境の問題、食料不足の問題など、さまざまな社会問題を集める。そのプロセスで、諸問題の共通点や因果関係などを分析し、解くべき課題を明確にする。明確にした課題の解決を検討するなかで、どんな組織、どんな制度、どんな人材、どんな資金、どんな労力、どんな空間、どんな道具が必要なのかを自由に検討していく。こうして見えてきた多様な解決策を実行するために、万能人として人々と協力する。したがって、社会課題解決のためのデザインが椅子などの「物理的な物のデザイン」だけに留まることは少ない。また、そのプロセスにはデザインを享受する人たち自身の参加も不可欠となる。

図2 万能人的デザイナーの思考プロセス
図2 万能人的デザイナーの思考プロセス

 本書は、以上のような万能人的デザイナーに向けて書かれたものである。だからこそ、本書の構成自体も「蝶ネクタイ形」になっている(図3)。蝶ネクタイの左側が第一部、右側が第二部というわけだ。第一部では「デザインの現状」として、デザインの定義、デザインとアートの歴史、個人主義、商業主義、消費社会、使い捨て文明、環境破壊、経済格差などに触れ、それらを集約しつつ、「社会的なデザインの必要性」へと導く。第二部では「デザインの可能性」として、社会課題の発見方法、創造的な発想方法、仕事の10%ルール、社会的なデザインの活躍が期待される分野、動植物や生態学に学ぶデザイン、そして万能人的デザイナーを育てる方法などへと話題は拡散していく。パパネック自身、本書の構成が「もしもなめらかな線的な連続性が欠けているとすれば」、この構成のせいだろうと述べている。そのうえで、拡散された話題の「断片群」を「(読者の)みなさんに、どのようなパターンがいちばん適切と思われるか、寄せ集めてもらいたいのである」としている⁶

図3 本書の構成=万能人的デザイナー向け
図3 本書の構成=万能人的デザイナー向け

 「社会的なデザイン」のその後

 本書が出版されて50年以上経つ。残念ながら、パパネックが指摘した「企業の儲けを最大化するためだけのデザイン」、「今あるものを古く見せるための廃物化デザイン」、「環境を汚染するような使い捨てデザイン」、「地域の文化を無視したデザイン」、「使い手の話を聞かないデザイン」などは、まだ続いている。

 しかし、パパネックの影響が皆無だったというわけではない。現在にいたるまでに出版された社会的デザインに関する本は、そのほとんどが本書について言及している。また、社会的デザインに携わるデザイナーや組織、大学や研究所も増え続けている⁷

 2007年にはニューヨークで「残り90%のためのデザイン」展が開催され、世界中で社会的デザインに携わる人たちの活動が紹介された。パパネックを連想させる展覧会名である。その内容は『世界を変えるデザイン』という書籍にまとめられ、多くのデザイナーが学びを深めるきっかけとなった。さらに2011年には「残り90%とともにデザインする」展が開催され、書籍も刊行された⁸。「残り90%のための」から「残り90%とともに」への変化は、当事者、利用者、住民のデザイン参加が重要であることを示唆している。

 こうしたコミュニティ参加型のデザインを、私はコミュニティデザインと呼んでいる。現在、コミュニティデザインに携わる人の多くは、その原点を本書に置いていることだろう。「デザインは、それを使う人たちとともに進められなければならない」というパパネックの明快な指針は、私に「正しいデザインの哲学とプロセス」を示してくれた。また、デザイナーは万能人でなければならないという視点は、コミュニティデザインが携わる分野を、グラフィックやプロダクト、公共建築や都市計画に限らず、教育、芸術、環境、社会福祉、公衆衛生、医療などへと広げてくれた⁹

 参加型デザインだけではない。パパネックが提示した「環境面」については、エコロジカル・デザイン、サステナブル・デザイン、サーキュラー・デザインなどの取り組みが続いているし¹⁰⁾、「福祉面」については、バリアフリー・デザイン、ユニバーサル・デザイン、インクルーシブ・デザインが多くの実践を展開している¹¹⁾。また、「問題解決の前に問題発見を」というパパネックの指摘には、クリティカル・デザインやスペキュラティヴ・デザインといった手法が模索されている¹²。そのほか、『ソーシャルデザイン実践ガイド¹³』、『姿勢としてのデザイン』、『コ・デザイン』、『進化思考』など、社会的なデザインを実践するうえで重要なヒントを与えてくれる書籍も刊行され続けている。

 本書でパパネックが提示した「残り90%のためのデザイン」の対象領域は広い。それは、金儲け以外の90%の分野のためのデザインであり、富裕層以外の90%の人々のためのデザインであり、先進国以外の90%の国々のためのデザインである。もちろん、このうちのいくつかの領域では、この50年間で挑戦的なデザインの実践が見られた。しかし、未だにデザインの取り組みが見られない領域も多い。また、こうした社会的デザインの実践が多くの人に知られたかというと心もとない。商業的デザインは企業の金儲けとセットになって広く知らされる。これに対して、社会的デザインは特定の企業が広告主になるわけでもなく、メディアのスポンサーになるわけでもないため、ほとんど人々に知られることがない。デザインを学ぶ学生たちが憧れる有名デザイナーたちは、そのほとんどが商業的デザインに携わる者なのだ。

 しかし、社会的デザインの実践は、それを知った良心的なデザイナーのなかに宿り、持続的な実践を生み出すための原動力となる。正直に言えば、商業的デザインに携わるデザイナー自身も、それが自分の人生すべてをかけて取り組むべきものだとは思っていないだろう。自分のデザインによって製品がたくさん売れて、企業の利益が高まり、経営陣と株主が喜んだとして、それがどうしたというのだろう。よほど感性の鈍いデザイナーでない限り、何度か「売れるデザイン」を生み出せば、それが本質的な意味を持ち得ないことに気づくはずだ。

 ましてや人工知能が斬新なデザインを提案できてしまう時代である。商業的デザインの多くは人工知能に任せれば良いと判断する企業も増えるだろう。そんな時代にデザイナーは食べていけるのだろうか。社会的デザインなら可能性がある。人工知能が得意とするのは専門家的デザイナーの仕事である。ひし形デザインプロセスなら瞬時にこなすことができる。一方、万能人的デザイナーの蝶ネクタイ形デザインプロセスは「人間の判断」、「チームでの協働」、「利用者との対話」など、現実世界を生きる人間の関わりが不可欠である。身体を持たない人工知能にできることは少ない。

 「生きのびるためのデザイン」とは、「商業的デザイナーが食べていくためのデザイン」という意味ではない。そんなふうに理解しているうちは、「先生の厳しい指導から生きのびるためのデザイン」を求めていた私の大学時代と同じくらい低いレベルをさまよっていると言わざるを得ない。本書をしっかり読み込んで、これから取り組むべきデザイン領域を見据えて欲しい。すべてのデザイナーに読んで欲しい本だが、特に「消費社会への迎合に疑問を感じている若いデザイナー」や「人工知能に脅威を感じているデザイン学生」に読んでもらいたい。そして、もし本書の内容に共感したのなら、商業的デザインに携わる友人デザイナーや、有名デザイナーに憧れる学生に本書を読むよう勧めて欲しい。

 本書を読んだ人たちのなかにパパネックの哲学が宿り、多くの人がそれぞれの方法で社会的デザインに取り組む未来が到来することを願う。もちろん、私もその一員であるつもりだ。

 

¹⁾ 大阪府立大学の増田昇教授。

²⁾ パパネックの経歴や他の著作についてはウェブで検索していただきたい。

³⁾ 環境意識が高まるきっかけとしては、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』も重要な役割を果たす。

⁾ 1970年には大阪万博に合わせてクリストファー・アレグザンダーが『人間都市』を出版し、1974年にはローレンス・ハルプリンが『集団による創造性の開発』を出版している。このあたりの刊行物はパパネックやフラーなどと同時代の雰囲気を共有しており、2015年には彼らの活動をまとめて展示した「ヒッピー・モダニズム」展がミネアポリスのウォーカー美術館で開催されている。なお、同名の図録も刊行されている。

⁾ 団塊ジュニア世代と呼ばれる。

⁾ 『生きのびるためのデザイン 新版』249ページ。

⁾ 19702010年代の社会的デザインに関する出来事は、拙著『ソーシャルデザイン・アトラス』にまとめたので参照いただきたい。なお、ウィーン応用美術大学のパパネック財団は、ドイツのヴィトラ・デザイン・ミュージアムと協働し、20182019年に「ヴィクター・パパネック:デザインの政治学」展を開催した。この展覧会は20202021年にかけて、ベルギーとオランダを巡回した。

⁾ 『世界を変えるデザイン2』。

⁾ コミュニティデザインが、まちづくり、政治、環境、情報、商業、芸術、医療、福祉、教育の分野に関わるようになった経緯は拙著『縮充する日本』にまとめた。

¹⁾ それぞれ『エコロジカル・デザイン』、『サーキュラーデザイン』などの書籍が出版されている。

¹¹⁾ 2014年に『インクルーシブデザイン』、『「インクルーシブデザイン」という発想』が出版されている。

¹²⁾ それぞれ『クリティカル・デザインとはなにか?』、『スペキュラティヴ・デザイン』などの書籍が出版されている。

¹³⁾ 著者の筧裕介は、社会課題をデザインで解決する法人「issue+design」を設立して実践を続けている。

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