境界の暴力に抗う文学的アクティヴィズム――『山よりほかに友はなし』
記事:明石書店
記事:明石書店
難民の受け入れや定住支援において、オーストラリアは実績のある国のひとつである。しかし近年、同政府はたとえ政治的迫害や紛争を逃れて庇護を求める人々であっても、非正規ルートで渡航した、いわゆるボートピープルを、南太平洋のナウル共和国やパプア・ニューギニアのマヌス島の収容施設に強制収容するという懲罰的措置を講じてきた。本書は、そうした政策のもと、マヌス島へと送られた若きクルド系イラン人ジャーナリスト、べフルーズ・ブチャーニーによって書かれた。
古今東西、数ある「監獄文学」のなかでも、『山よりほかに友はなし』はひときわ異彩を放つ一冊だといえるだろう。本書は、密かに持ち込まれた携帯電話を使ってテキストメッセージとしてペルシャ語で書かれ、翻訳者のオミド・トフィギアンをはじめとするオーストラリアの支援者によって英語に翻訳・編集され出版された。難民となった当事者と支援者の協働から生まれた奇跡のような本である。
本書が発売され、大きな文学賞を受賞し、「ブチャーニー現象」が巻き起こった2018年から2019年にかけて、私は在外研究でオーストラリアにいた。友人同士が寄りあうブッククラブ、書店や図書館の催し、大学の研究会や学会、一般市民から専門家や研究者に至るまで、様々な集いが開かれ、人々がこの本を読み、この本について語りあう様をつぶさに見て、本書がその社会に与えたインパクトの大きさを肌で感じていた。それはまさに、国内の人々の視線が届きづらい他国の島に庇護希望者を収容するという、国際人権の規範から逸脱した政府の難民政策に対する、市民社会からの異議申し立てのように思われた。難民を安全保障の脅威と見なす排外主義的な政権に容易には誘導されず、この問題に向き合おうとする市民社会の姿がそこにはあった。
人間の尊厳を奪う無期限の拘留の問題性と、肉体と精神を蝕むような難民収容施設での生活を赤裸々に描いた本書は、ジャーナリストとして国際的に活躍してきたブチャーニーの真骨頂が発揮された作品であることに疑いの余地はない。だが、実体験に基づいた作品の力に加えて、意識の流れや哲学的思索、詩やクルドの神話を織り交ぜた本書の創作としての独創性が、より多くの読者を惹きつけてきたことも、また事実であろう。
ヴィクトリア州首相文学賞を受賞した際のインタヴューに答えてブチャーニーは、自らの作品の受賞は難民を「人間と見なさない制度に対する勝利」であるとし、「非人道的な制度や構造に対抗する力」としての文学の言葉の可能性について言及した。「文学は読者を難民収容所へと誘い、被収容者たちの生活を体験させ、目撃させる」のだと。本書は、その言葉通りの作品だ。ジャーナリズムという伝達手段に安住せず、自らが書きたいこと、書くべきことを深く掘り下げるための言葉と方法を模索したブチャーニーの表現への飽くなき探求心が、幻想と現実が融合する恐怖的シュルレアリスムに彩られた「監獄文学」を生み出し、様々な権力を問う問題領域を切り拓くことを可能にしたのだろう。
ブチャーニーにこの作品を書かしめたのは、マヌス難民収容施設での体験であることは紛れもない事実である。だが、本書を読めば、彼のクルド人としての来歴もまた、この作品の成立に色濃く影響していることがわかる。クルド人は、イラク、イラン、トルコ、シリアなどの国境をまたぐ「クルディスタン」と呼ばれる一帯に暮らす「国を持たない最大の民族」と言われている。ブチャーニーは、イラン・イラク戦争の最中の一九八三年、イラクとの国境に近いイランのイーラーム州の山岳地帯に生を受けた。国を持てないまま、周辺の地域大国の弾圧と戦火に翻弄されてきた民族の歴史を捉え、自らを「戦争の子ども」と呼ぶこの作家は、一度はクルドの軍事組織ペシャメルガに身を投じようとした。しかし、「非暴力の抵抗をめぐる思想」によって思い止まり、ペンの力によって生きることを決意すると、彼は必要最小限の荷物と一冊の詩集を忍ばせたバックパックを手に故郷を後にする。山の民である彼は、地図でしか見たことのなかった海へと繰り出しオーストラリアを目指すが、死の恐怖と向き合う航海の先に待っていたのは、マヌス島での強制収容だった。「山よりほかに友はなし」という言い回しは、山とともに生きてきたクルドの民に古くから伝わることわざだというが、国際社会において孤立したクルド人の置かれた状況と同時に、マヌスの孤島に遺棄された難民の状況をも映し出している。
「戦争こそが社会システムの基礎」(『暴力について』)と指摘したのはハンナ・アーレントであるが、本書は「監獄文学」であると同時に、究極の「戦争(反戦)文学」であり、それは最終章で描かれる抑圧に抗する囚人と警備部隊の闘争の場面に最も鮮烈に表現されている。ブチャーニーは、マヌス監獄の囚人たちの抗争の物語に、「幽霊の地であり、捨てられた領土であり、かつての戦地」であったマヌス島の太平洋戦争の記憶と、クルド人が経験してきた闘争の歴史を重ねて描く。
「キリアーカル・システム」という用語と概念を通して、先住民政策に始まり、現代の難民政策にも通じる植民地主義的支配の性質や交差性を持つ抑圧の構造を鋭くあぶりだす本書は、究極の「ポストコロニアル文学/脱植民地文学」でもあるだろう。鳥の声と人間の嘆きが重なり、「自然の哀歌」と「人間の哀歌」が一つに合わさって響く象徴的なエンディングが示すように、本書はマヌスという小さな島に囚われた難民たちの生を描きながら、地球上にいくつもの国境線を引き、人間を閉じ込め、人間と人間ならざるものを分節化し、自然やいきものを搾取する近代社会の暴力とそれが生み出したシステムを前景化するような壮大な企てなのだ。
このような本書の文学性を見れば、ブチャーニーの支援者には人権活動家や研究者のみならず、作家やアーティストが多く名を連ねていることにも合点がいく。移民や難民の経験を主題として描いてきた作家アーノルド・ゼイブルは、ブチャーニーの創作活動を一貫して支援してきた。さらに、オーストラリア屈指の作家リチャード・フラナガンに加えて、ノーベル文学賞受賞作家J・M・クッツェーも、この作品が書かれたことの意義を論じた。これらの作家やアーティストの応答は紛れもなく、絶望の淵にあっても思索と言葉を手放さなかった作家としてのブチャーニーへの連帯の意の表明にほかならない。
これまで18の言語に翻訳され、オーストラリアを超えて、世界の難民が置かれた現状、さらには、植民地主義への考察をめぐり、様々な領域横断的研究や実践への扉を開く本書から、私たちが学ぶべきことは多くある。「翻訳者の考察」の冒頭でトフィギアンは、「囚われた」考え方のもとに難民を排除しようとしたり、無関心を装いながら「もう一つの島」に住まうオーストラリア人のありさまを一つの寓話を通して表現した。流刑植民地であったオーストラリアの歴史を皮肉るようなこの島の寓話を、私たちは他国の話として聞き流すことができるだろうか。パレスチナやウクライナ、各地で紛争が続く中、増え続ける「難民」の保護をめぐって世界は揺れている。日本でも、難民認定率の低さに加えて、申請が認定されない者、在留資格を持たない者に対する無期限かつ長期化する入管施設での収容が問題となっている。本書は、難民受け入れに否定的な日本の状況や入管の闇をはじめ、同様の問題を抱える私たち自身の姿を映し出す合わせ鏡である。
*本書に関する日本語で読める参考文献として、加藤めぐみ氏による「山々よりほかに友なき難民――ベフルーズ・ブーチャーニの難民収容所文学試論 1」(『南半球評論』第35号、2019年)と「越境する者とされる者――ベフルーズ・ブーチャーニ『山々よりほかに友はない』とフェリシティ・カスターニャ『ノー・モア・ボート』にみる 「境界」への一考察」(『南半球評論』第36号、2020年)がある。
その他、本書出版の経緯を伝えた映像やブチャーニーが関わったドキュメンタリー映画に以下の作品がある。
・ブチャーニーの本が出版されるまでのプロセスを伝えるABCニュースの『Australian Story』
https://www.youtube.com/watch?v=13DgfpxrrAU
・ブチャーニーが制作に関わった2017年のドキュメンタリー映画『チャウカよ、時を伝えて』
https://www.behrouzboochani.com/behrouz-boochani-film
・『チャウカよ、時を伝えて』のYoutubeのトレイラー
https://www.youtube.com/watch?v=EwaVMPYEzrA