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日本の「入管問題」の淵源を探るために―貴堂嘉之さん評『出入国管理の社会史』

記事:明石書店

李英美『出入国管理の社会史—戦後日本の「境界」管理』(明石書店、2023年)
李英美『出入国管理の社会史—戦後日本の「境界」管理』(明石書店、2023年)

 日本の「入管問題」の淵源を理解するのに最良の歴史書が刊行されたので、その魅力を紹介させてもらいたいと思います。私は著者の李英美さんの指導に短期間とはいえ関わった者なので、専門家がどう評価するのかを見守る立場であって、自身で書評をする立場にはないのですが、今回ばかりは本書をみなさんにどうしても手にとってもらいたいので、紹介文を書くことをお許しいただきたい。

誰がいつ、こんないびつな制度を作ったのか

 2023年6月9日に、「出入国管理及び難民認定法」(入管法)の改正案が参議院本会議で可決・成立しました。二年前の2021年2月にもほぼ同じ内容の入管法改正案が提出されましたが、その際には法案提出の一ヶ月後に名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマさんが亡くなる事件があった影響もあり、廃案となりました。この二年間、亡くなった女性の遺族や支援者による活動もあり、日本の入管施設内での問題―長期収容、暴力など—がメディアで取りあげられる機会も増え、入管法改正案の審議中は連日のように支援者による「入管法改悪反対」の運動が展開されました。

 でも、そもそも誰がいつ、こんないびつな出入国管理の制度を作ったのか、その問いに答えられる日本人がどれだけいるでしょうか。日本では、在留資格のない外国人は、入管法に違反するため、原則として入管施設にみな収容されます(全件収容主義)。日本の入管施設は、全国各地域の入管に加えて、茨城県の牛久にある「東日本入国管理センター」と長崎県の大村にある「大村入国管理センター」からなります。著者は、アムネスティ・インターナショナルの難民チームの一員として牛久の収容所問題に携わるようになり、さらに戦後日本の出入国管理施設の端緒をなす長崎の大村収容所の歴史研究にのめり込むことになりました。

 日本では、退去強制令書による収容では「送還が可能になる日まで」収容できるため、それが(上限のない)長期収容の原因となっているわけですが、その長期収容が解かれる道は「帰国」「仮放免」「在留特別許可」の三つしかありません。この日本の「仮放免」「在留特別許可」という不思議な制度も、淵源をたどれば、戦後日本で朝鮮半島を中心とする旧植民地出身者を「外国人」として扱い始め、彼らを管理する網の目の権力が入管という施設とその外側に幾重にも張りめぐらされていく過程で作り出された制度であることが本書では丁寧に描かれます。21世紀になってなお繰り返される入管での人権侵害が、1950年代前半の時期に作らせた制度とその実務にあたった現場の人々によって作り出された「日本人」と「外国人」の境界設定から脈々と連なっているとなれば、みなさんの「入管問題」の見え方は変わってくるのではないでしょうか。

出入国管理の世界史を考える

 私は長いこと、アメリカ合衆国の移民史、出入国管理の歴史研究に取り組んできました。このテーマでよくある誤解は、近代国民国家の誕生とともに、「国境」や「国民」の管理は制度化されたとする考え方です。しかし、移民国家といわれるアメリカ合衆国ですら、連邦政府主導の出入国管理が始まるのは東海岸で1892年(エリス島)、西海岸では1910年(エンジェル島)となります。建国から百年以上たった20世紀転換期になって、制度は整えられました。「長い19世紀」に多くの国民国家が誕生し、国境線で囲まれた領土で地球が覆われるようになっても、国家はそう簡単に人の移動を管理・統制することができず、彼らを「国民」として囲い込むまでには時間がかかったのです。このことは、社会学者のジョン・トーピーが『パスポートの発明』で指摘しているように、国籍・身分を保証するパスポート・システムが第一次世界大戦以前には本格的には普及しなかったことに端的に示されています。

 トーピーは、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の共同体」であるとして国民国家論を展開したB・アンダーソンの論を批判して、国民を「想像」するだけでは国民国家は成立しないと指摘します。「移民国家」の成立については、その出入国記録が文書化され、実質的な移民行政と監視システムの確立をもって、国民国家成立の指標とすべきだと主張しました。一次大戦を契機にオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国などの多民族を抱える旧帝国が解体し、新たな国民国家が成立したことが、1930年代以降に一国単位のパスポート・システムの普及を進めたと言えます。

 とすれば、世界史上、私たちの出入国管理、パスポート・システムの運用歴はまだ百年にも満たない歴史ということになるわけです。第二次世界大戦での敗戦と帝国の解体が日本における出入国管理のスタート地点になったとしても、時期的にはそれほど他国とズレているわけではありません。

本書の分析視角としての「社会史」—「境界」「現場」への徹底的なこだわり 

 戦後日本の出入国管理は、第二次世界大戦での敗戦と帝国の解体に伴い、連合国軍の統制のもとで復員、引揚げ、残留、送還などの膨大な人々の移動に対処する課題から始まりました。日本は、対日講和条約が発効した1952年頃に「日本人」の境界設定に関して政策転換を図り、国籍法の改正や特別措置法などの法律によらず、法務省民事局長通達によって、旧植民地出身者に国籍選択権を認めず、彼らの日本国籍の喪失措置をとりました。

 この時期の出入国管理については先行研究も多くありますが、本書の分析視角の優れた点は、民事局長通達を唯一の根拠として一律に日本国籍を喪失させたことで発生した問題群を、「外国人」管理の行政実務の「現場」に徹底的にこだわり、その視点から「日本人」と「外国人」とを分かつ境界がつくられていった過程を描ききったところにあります。著者自身が「あとがき」で、日本各地の文書館に保存された外国人登録関係資料を探し歩き、この仕事に携わった人々の業務記録を読む作業は、「戦後日本社会が「外国人」に向けてきた執拗なまなざしを追体験するかのようなフィールドワークであった」と書いているのは印象的です。

 本書は、序章・終章をのぞいて、本論部分は5つの章から構成されています。第1章と第2章では、まず50年代初期の外国人登録行政の現場に焦点があてられます。末端で業務を担った市区町村役場では、「外国人」として登録すべき者は誰なのか、実務にあたって不明瞭さや曖昧さがあって、上意下達式に業務遂行できたわけではありませんでした。むしろ、登録吏員が自ら「外国人」を発見し写真を撮り、書類作成(ときに代筆)することで「外国人」が作り出されていった様子がわかります。この現場の実務者の熱意があってこその行政であり、模範的な職員には法務省表彰の制度がありました。

 第3章は、朝鮮戦争前後の時期に、朝鮮から日本へと渡航しようとした「密航者」の摘発を担う業務体制が、九州・中国地域でいかに整えられたかが検討されます。1950年6月の朝鮮戦争勃発を契機に、10月には針尾入国者収容所が発足し、その機能が同12月には大村入国者収容所に引き継がれる時期です。ここでの論点は中央当局に近い警察権力が活用されたことに加え、予算・人員不足を補うべく、沿岸地域の民間人が動員され「密航監視組合」が組織されるなど、これらが地域ぐるみの「防犯」活動の延長線上に位置づけられたことです。

 第4章では、大村収容所を舞台に、そこに「密航者」や「不法入国者」として収容された者たちの釈放の問題が検証されます。朝鮮戦争の最中、1952年に対日講話条約が発効すると、大村収容所から韓国へ送還されていた被収容者の受入れを韓国政府が拒否し始め、事実上、送還が困難となる中で、大村収容所は過剰収容状態に陥る。その結果として、日本政府は「仮放免」や「在留特別許可制度」の運用を始め、政府が認定した、旧植民地支配と連なる民間保護団体を介して、被収容者に対する国内釈放を実施したのです。こうした制度が、冷戦下の朝鮮半島を中心とする国際情勢の変化に強く影響された政治の原理に突き動かされていた点や、1950年代の「釈放」が単なる身柄の釈放ではなく、在留管理制度と密接に結びついた、非正規の越境者・移動者に対する統治手段の一つとして生み出されていた点など、現在の「入管問題」に照らしても興味深い指摘がたくさんあり、読み応えがあります。

 第5章は、大村収容所を抱えた地域社会で、「密航/密航者」がどのようにまなざされていたのかを教育現場に焦点をあてて、児童作文や教育映画を素材に分析しています。大村では、「密航者」以外にも、漁船員の拿捕などで家族別離のケースもでており、児童作文には様々な話題がのぼりました。これらは、日教組の戦後民主主義・平和主義的な教育理念を体現した活動で、熱心な教職員による「歴史実践」の事例としても興味深いと思います。収容所の子どもと近隣の小学生の交流を描いた映画『日本の子どもたち』にも注目し、映画に出演した地元住民に聞き取り調査を行うことで、ここでも教育現場を中心に「外国人」の境界が地域社会でつくられる様を析出しています。

歴史実践としての挑戦―私たちにできること

 以上、概観してきたように、これまでの制度・政治・運動史的な研究とは異なる分析視角で、戦後日本の出入国管理の現場に焦点をあてて、旧植民地出身者が「外国人」として地域社会において作り出されてきた過程を描き出すことに本書は成功していると思います。この研究成果を現在の「入管問題」とつなぎ合わせ、私たちに何ができるかと自問することは、私たち自身が引き受けなければならない課題です。制度が、それを運用する現場の担い手とそれを支える地元の人々抜きには存立しえないとすれば、私たちが介入できる余地は残されているとも言えます。第5章で取りあげられた歴史実践には限界が指摘されるものの、私自身は歴史家として、今日の「入管問題」に関して、施設のウチとソトの交流を通じて、「日本人」と「外国人」の境界を切り崩すような歴史実践の可能性もあるのではないかと考えもしました。

 本研究には、今後さまざまな研究の発展可能性があるように思います。人の移動史や出入国管理史の専門家としては、近年めざましい展開をみせている戦後の引揚げ者研究など、より総合的な人の移動史へとつなげていく作業があり、今回は扱わなかった旧植民地の台湾出身者の人々を射程に収める構想もありえるでしょう。また、今回は「外国人」の境界をつくり出し、管理する日本人の側から論じましたが、管理された側の旧植民地の人々の反応を追うことで、その相克を描くことも期待されます。また、管理の現場でしばしば垣間見られた日本人吏員の「善意」や「良心」をどう評価するのかも、出入国管理の行政のあり方や日本社会の差別構造を考える際には、さらに踏み込んでの検討が必要かもしれないと思いました。

 「あとがき」を読みながら、著者が米国大使館でビザが取得できず、米国での史料調査が困難となりアメリカが絡む研究テーマを修士課程で断念したときのことをあらためて思い出しました。あのときの挫折を乗り越え、「外国人」に向けられる執拗なまなざしを追体験するようなフィールドワークを経て、本書が刊行されたことには、感慨深いものがあります。昨年度も、修士課程の留学生が同様のケースで、渡米を断念して研究テーマを変更せざるを得ないケースがありましたが、こうした若手研究者にも希望を与える仕事となったのではないかとも思います。

 日本の「入管問題」の淵源の歴史を知る研究書として、本書をすべての方にお薦めしたいと思います。

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