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理論的な行き詰まりで神秘主義に接近 タイガーマスクで近所を歩き回った:私の謎 柄谷行人回想録⑰

記事:じんぶん堂企画室

近所の公園を散策する柄谷行人さん=篠田英美撮影
近所の公園を散策する柄谷行人さん=篠田英美撮影

――「内省と遡行」以来、いよいよ柄谷さんの精神的な危機の時代に突入します。「隠喩としての建築」を改稿する形で「形式化の諸問題」を書いた後、「言語・数・貨幣」を「海」の1983年4月号から連載しますね。

柄谷 僕の理論的な仕事の集大成だと考えていました。もっとも、僕は「マルクスその可能性の中心」以来の10年ほどの間、常にそのときどきに決着をつけるつもりで書いていました。だけど、果たせずにいた。今度こそ、という思いだった。

――浅田彰さんは、「内省と遡行」と「言語・数・貨幣」について、「これは驚くべき敗北の記録である。急いで付け加えよう、それが敗北の記録であるということは本書の価値を些かも貶めるものではない」と評しています(『内省と遡行』講談社学術文庫版解説)。

柄谷 閉じられた思考体系の外に出るために様々な方向を試し、挫折してはまた別の方向から進む、ということを繰り返した。だけど、ついに本当に行き詰まったんですね。にっちもさっちもいかなくなった。

――浅田さんは、“外部”に出ようとする柄谷さんについて、ジャック・デリダとは違う方法を取ったとも。

柄谷 浅田君は、思想だけでなく数学もよくわかっていますからね。前も言ったように、ここで考えたことは、デリダやポール・ド・マンのディコンストラクション(脱構築)の影響を受けてはいる。ただ、そのまま採用したわけではありません。デリダが始めたディコンストラクションは、最初はラディカルだったし政治的でもあった。二項対立から自己言及的な矛盾を引き出して、内部から崩壊させてしまうんだから、破壊的です。でもだんだん、それがメソッドのようになっていった。

脱構築への疑問

――脱構築は、方法として確立されてしまうと、本来的な批判力を失ってしまうということでしょうか。

柄谷 特にそういう傾向が見られたのはアメリカだったと思う。学生たちも、こぞってディコンストラクションに基づく博士論文を書いたりして。だけどそういうところでは、ディコンストラクションは、本来の危うさを失って、型にはまった権威主義的なものになる。僕が20世紀の終わりに書いた『トランスクリティーク』には、ディコンストラクションへの批判という含みもあった。思想には“移動”が必要だ、と。どこでもどんなときにも有効な方法なんて、ないんだから。

――浅田さんの指摘を踏まえると、柄谷さんはそういういわば安全圏からの脱構築では満足できなくて、本当に自分の足元まで崩してしまうような脱構築にまで踏み込んでしまったということなんでしょうか。

柄谷 そうかもしれない。自爆ですね。最初からわかってはいたけども、言語について考えるのも言語でやるしかないし、言語で根拠づけるしかない。数学についても同じです。そして、形式化を突き詰めていくと、形式化されえないものが逆に浮かび上がってくる。それを繰り返した先にも、形式化されえないものがなお残る。だけど、こういうことを考えていくと、どうも神秘主義的になってしまうんですね。

――神秘主義ですか。

柄谷 神との合一を目指す、というようなタイプの神秘主義ではないよ(笑)。ただ、考えていくうちに、超越的な存在・領域を措定せざるをえなくなった。僕は、理論が神秘主義的になるのは安直だし、怠惰だと思っていた。だけどもう一方で、この世界のことを、この世界の言葉や論理だけでは説明しきれないのだとすれば、別の世界があるのかもしれない、そんなことを考え出した。“この世”が存在するためには、“あの世”が存在しなければならないんじゃないか、とか。存在する、と思ったわけではない。しかし他方で、完全に否定することもできないわけです。そんなふうに考えるうちに、だんだん“あの世”が現実味を持ち始めてしまったんですよ。感覚的にね。それでちょっとおかしくなった。
いま考えると、なんでそんなに悩んでいたのかわからないんだけどね(笑)。

夕暮れの公園で……「やけくそ」のタイガーマスク

――考えすぎた、と言ってしまえばあまりに単純ですが、この頃の有名なエピソードがありますね。夕暮れの公園を……。

柄谷 お面をかぶって歩き回っていた、っていう話でしょ?(笑)。タイガーマスクをかぶって、当時住んでいた桜上水の家の近くを徘徊していた。お面は、子どもが持っていたものだったと思う。当時、プロレスがはやっていたんですよ。頭からかぶるタイプのお面で、頭も顔も覆われて誰だかわからないから、気楽なんだよ(笑)。

プロレス会場を埋めた若者たちは、タイガーマスクの華麗なプレーにカメラを構え、声援を送った=1983年、東京・後楽園ホール
プロレス会場を埋めた若者たちは、タイガーマスクの華麗なプレーにカメラを構え、声援を送った=1983年、東京・後楽園ホール

――一種の変装というか、顔を見られたくなかったんでしょうか。

柄谷 どうだろう。まあ、アホちゃう?(笑)。まわりの人たちも、ギョッとはしたかもしれないけど、変なおっさんが来た、と思っただけで怖がるようなこともなかったんじゃないかな。

――あるいは、人に見られたいということでもあったんでしょうか。あっと驚かれて、解放されるような部分が。

柄谷 そういうのもあったのかな。見られるための変装だったら、誰にも見てもらえないと寂しいだろうね。

――この頃のことは、すごく悲壮感を持って書かれていたこともありますが。

柄谷 まあ、喜劇ですよ。ただ、やっぱり身動きがとれなくなっていたんだね。理論的な行き詰まりで。お面をかぶって歩いたからって、なにか思いつくわけでもないんだから、もういたたまれないだけ。
だんだん体も悪くなっちゃって、本当に書けなくなった。一応、法政大学の授業はやっていたし、寝込んでいたわけじゃない。原稿もまったく書いていなかったわけじゃないけど、「言語・数・貨幣」の連載は中断しました。

ド・マンの死で断念

――やはり、進退窮まった状況ではあったんですね。83年の9月から翌年の3月まで、コロンビア大学東アジア学科客員研究員として渡米しています。

柄谷 日本にいると気が変わらないから、外国に行った方がいいということもあった。休養というか、ブラブラしにいったんだろうね。とはいえ、遊んでたわけじゃないよ(笑)。この問題については考えないつもりなのに、少し元気になるとどうしても考えてしまう。むしろ授業がないから、集中的に考えることができた。コロンビアには、エドワード・サイード(エルサレム出身の思想家、批評家)やガヤトリ・スピヴァク(インド出身の批評家、比較文学者)がいて、彼らとも知り合った。恵まれた環境ではありましたね。

コロンビア大が、親パレスチナの学生団体の資格を停止したことに抗議するデモに集まった学生ら=2023年11月14日、米ニューヨーク
コロンビア大が、親パレスチナの学生団体の資格を停止したことに抗議するデモに集まった学生ら=2023年11月14日、米ニューヨーク

――当時、すでに柄谷さんの本は英語で読まれていたんですか。

柄谷 いや、まだ英語の本は一冊も出版されていなかった。でも、「日本近代文学の起源」なんかは、私家版のような感じで、訳が出回っていたらしい。

――ポール・ド・マンが亡くなったのもこの頃ですね。

柄谷 ちょうど僕がニューヨークにいたときでした。少しさかのぼりますが、僕は80年ごろ、ド・マンとよくゲーデルの話をしたんです。彼はゲーデルをそんなに読んでいたわけじゃなかったけど、ゲーデル的な問題にいきつくことは理解していました。

――ド・マンを読者として想定していたわけですよね。

柄谷 僕がこの頃取り組んでいた仕事は、ド・マンとの出会いに端を発するものだった。彼に論文を認められて、だけど自分では納得いっていなかったから、完全なものを書こうとした。それがうまくいかなくて、また次を試みて……。しかし、ド・マンはヨーロッパの知的な伝統を一身に背負ったような人で、彼に向けて書くとなれば、西洋思想史を全部踏まえないといけないから、プレッシャーは大きかった。

――相手にするのは大変なことですね。

柄谷 僕に、外国で読まれるようなものを書け、とけしかけたのはド・マンだったし、僕もそうすべきだと思った。身が引き締まるような思いもあったけど、重荷でもあったわけです。僕にとっては、アンビヴァレントな存在だった。
81年ころ、日本の自宅に、ド・マンから本と手紙が届いた。「コロンビアにはいつ来るんだ」「あの仕事はどうなってるんだ」と書いてあった。ちょうど僕が自己言及の問題で行き詰まって、身動きが取れなくなっていた時期だったから、返事も書かなかった。すると今度は、手術を受けたという知らせが届いた。
それで、83年の12月、コロンビアにいる間にド・マンと会おうと思って、電話したんです。彼の住まいのニューヘイブンは、ニューヨークからは車で1時間半くらいですからね。行こうと思えばすぐに行ける。療養中だけど、まもなく回復するから会おう、ということになった。だけど、その数日後に亡くなってしまった。前に話した通りです。(第11回参照)

――「マルクスその可能性の中心」のあと、「言語・数・貨幣」まで長く取り組んだ仕事を、読者として届けたい相手もいなくなってしまった。

柄谷 正直に言えば、解放されたような気持ちもあったんですよ。もう書けなくなっていたとはいえ、10年近く取り組んでいた仕事を諦めることもできずに、追い詰められていたわけでしょう。だけど、ド・マンがいなくなったんだったらもういいや、やめよう、と思った。それで、サバサバした気持ちになった。

「霊的なものどう思う?」サイードの答えは

コロンビア大学で取材に応じるエドワード・サイード=2002年
コロンビア大学で取材に応じるエドワード・サイード=2002年

――この頃、サイードとスピリチュアリティーについて話したそうですね。

柄谷 そうだった。サイードは、ディコンストラクションが批判力を失ったなかで、新しい可能性を示した人だった。結局、彼のオリエンタリズム批判も、ポストコロニアリズムの中で、お決まりのメソッドにされてしまったわけだけど。サイード自身は、非常に洗練された環境で育った人だけど、知的には野蛮だったと思う(笑)。彼は、パレスチナのアラブ人、かつキリスト教徒で、パレスチナ解放機構にコミットして、アラファトの演説のドラフトを書いていたような人です。ユダヤ系の団体や反アラファト派に命を狙われて、防弾ガラスのついた車で移動しているという話も聞きました。
僕は、サイードに「霊的(スピリチュアル)なものについてどう思うか」と聞いたんです。自分が、そういうことを考えるようになっていた頃だったから。

――サイードが死と隣り合わせだったからこそ尋ねたわけですか。

柄谷 そうかもしれないね。サイードの答えは、「自分はそういうものに何の関心もない。自分は暗殺リストに載っている以上、死ぬことはそういう問題なのであって、家族のことだけを考えている」というものだった。ハッとしましたね。自分は、観念のための観念にはまりこんで、現実との関係を失っている、と思った。
そうはいうものの、僕の考えでは形式体系について突き詰めていけば、どうしても神秘主義的になるので、スピリチュアルというか目に見えない領域は、ただ否定してすむという問題ではなかったんです。ゲーデルにも、神秘主義的傾向があった。だけど僕は、そういうことをきちんと理論化することもできなくて、精神的に混乱しただけだった。それでもう全部やめにするしかなかった。そして始めたのが、「探究」の連載でした。
結局、この「探究」が、“交換様式論”という極めて体系的な仕事に行きつくことになるんだけどね(笑)。まあ、「探究」開始から15年ほど経ってからだけど。

――「探究」自体も柄谷さんの大きな仕事の一つですね。次回、改めてお聞きします。少し先取りになりますが、『内省と遡行』の「文芸文庫版のあとがき」では、柄谷さんは、中断した「言語・数・貨幣」の仕事が、実は近年の集大成的な仕事である『力と交換様式』(2022年)につながったと振り返っています。

柄谷 『力と交換様式』に取りかかったときには、そんな風には思っていませんでした。だけど、さっきも言ったように、「言語・数・貨幣」で、僕が直面した問題というのは、 “あの世”の存在でしょう。交換様式がもたらす力も、目に見えるような力じゃないわけ。マルクスが物に憑依する力を“物神”と呼んだように、それらは全部霊的な力なんですよ。

まだ書かねばいかん

――一旦挫折した問題があって、別の問題に取り組んでいるつもりが、実は以前の問題の先にあるものだったのかもしれない、と。

柄谷 そうなんです。考えているうちにおかしくなったところも同じで、『力と交換様式』を書いているときは、心身の状態が悪くなって、すごく苦労した。年齢のこともあるかもしれないけど、それだけじゃないような気がする。そうこうするうちにコロナ禍になって、毎日長い散歩に出かけて、マスク姿で近隣を歩き回った。タイガーマスクの“反復”です(笑)。

――前回は挫折して、今回は最後まで書き切ったわけですが、違いはなんでしょうか。

柄谷 いま振り返ってみれば、80年前後に僕が悩んでいたことは、あくまで哲学的、理論的な事柄で、言ってみれば自分の頭のなかの問題だった。だけど、今回は違う。もっと現実的なこと、切実な問題に関わっている感じがあった。このままいけば世界戦争だと思っていたしね。

――柄谷さんが言ってきたような、ネーション(交換様式A)、国家(B)、資本(C)の結合体を維持したままでは、世界戦争に至るということですね。そこで、新たな交換様式Dを考える必要がある、と。

柄谷 そうです。僕はサイードのように、霊的なものについては考えない、そこに現実性を認めない、ということはできない。 “あの世”とか“霊”とか言うと、いかがわしいと思われるでしょ。現実逃避だとか、オカルト的だとか。事実、そういう場合も多い。だけど、現に霊的な力が働いているんだから、しょうがない。むしろ、その力を見なければ現実を理解できない。だから、 “霊の力”としか言いようがないものについては、はっきりそう言うことにしたんです。
書き終わった頃に、ロシアとウクライナの問題が起きて、去年からはパレスチナも大変なことになっている。中国や台湾の問題もある。もういっぺんに出てきたでしょう。世界中どこもまともじゃない。こんなに脆いものだったのか、っていうのは、やっぱりすごく思いますよね。
他方で、僕は交換様式を考えるなかで、こうなることは分かってもいた。このまま資本-ネーション-国家の体制でやっていたら、地球環境ひとつとっても、持つわけない。いろいろな人がひっきりなしに、さまざまなオルタナティブや新しいヴィジョンを提唱しているけれど、僕から見たら全然オルタナティブじゃない。資本-ネーション-国家の永遠性を当然のこととしたうえで、その範囲でできることをやろうとしているだけだよ。もしくは、その中にいることにすら気づかないで、勝手に都合のいい世界を空想しているだけ。本当のオルタナティブは、むしろ世界戦争によって出てくるかもしれないけど――要するにそうせざるをえないところに追い込まれて――そんなことは望ましいわけじゃない。望ましいわけがない。

――だからこそ、少しでも早く『力と交換様式』を書き上げなくてはならなかったということでしょうか。

柄谷 いやいや、まだ足りない。まだ書かねばいかん。Dについても、もっと踏み込んで書かないと。僕は今、新しい本に取り組んでいます。 “力”の問題についてです。ただ、今度の本は、体系的な書き方、理論的に緻密な書き方ではなく、もっと自由でストレートな書き方になると思います。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、「探究」についてなど。月1回更新予定)

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