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小指さんの漫画エッセイ『偶偶放浪記』

記事:白水社

岸本佐知子氏、都築響一氏推薦! 小指『偶偶放浪記』(白水社刊)は、漫画+エッセイの「旅の本」。宿も食事も想定外、なぜか巻き込まれる奇怪なアクシデントの数々……読後はふらっとどこかへ行きたくなること必至の、珠玉の旅漫画+旅エッセイ集。有名な観光地でも“映え”スポットでもない、人々に忘れ去られそうな場所を「たまたま」訪れる愉しみ。
岸本佐知子氏、都築響一氏推薦! 小指『偶偶放浪記』(白水社刊)は、漫画+エッセイの「旅の本」。宿も食事も想定外、なぜか巻き込まれる奇怪なアクシデントの数々……読後はふらっとどこかへ行きたくなること必至の、珠玉の旅漫画+旅エッセイ集。有名な観光地でも“映え”スポットでもない、人々に忘れ去られそうな場所を「たまたま」訪れる愉しみ。

まぼろしの町 石岡

 

小指『偶偶放浪記』(白水社)P.67より
小指『偶偶放浪記』(白水社)P.67より

 

 一時期、ツポールヌが茨城県の田舎で一人きり、仕事もなければ電気も繋げずに吉幾三のような暮らしをしていた頃があった。「このまま死ぬ気なんじゃないか」と心配した私は、ある日連れ戻そうと茨城へ向かった。だが、説得するつもりが行ってみると幾三ライフも意外と楽しく、私も数日滞在することにした。

 とはいえ、テレビも何も無いとなるとさすがに飽き、同じ沿線に映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のロケ地があると知ってそこへ行ってみようとなった。今思えばまだ映画すら見たことなかったくせに、どれだけ暇だったのだろうか。

 そして、私たちはそれまで知りもしなかった「石岡」という町へ早速行ってみることにした。

 

 石岡までは電車で数駅とのことだったが、実際行ってみると一時間近くかかってしまった。常磐線の駅の間隔の広さを完全になめていたのだ。ちょっと足をのばすつもりが、「やばい、遠いな」と青くなった。やっと石岡駅に着いて降りてみると、駅前に広がる荒涼とした景色に圧倒され、「もしかして、ここで降りても何の意味もないかもしれない」と思わず立ち尽くしてしまった。日頃から「無駄なものほど経験すべき」などと言っているくせに、いざ本当に意味がなさそうなものと対峙するとこんなに簡単に怯んでしまうとは自分が情けない。『三丁目の夕日』のロケ地というのも、もしかしたら私のいつもの記憶違いかもと段々不安になった。とにかく文化も何もなさそうな町。初めの石岡の印象は、そんな町だった。

 

 とりあえず気になる道を選んで歩いてみると、かつて立派なボーリング場だったと思われる廃墟があった。塗装はほとんど剝げ落ち、窓もすべて無くなって骨組みのようなものだけになっている。中は瓦礫だらけで、壁にはスプレーで試し書きのような雑な落書きが無数にされてあった。それでも陽射しが燦々さんさんと降り注ぐ中でそびえ立つ様は、「なんだここは、パルテノン神殿か?」と思うくらい謎に荘厳だった。

 周辺にある建物もほとんどが空き家状態で、もう随分前からこのままという感じだ。しんとした静けさの中、がらんどうの建築物の間を歩いていると、まるで海底に沈む、骨だけになったクジラの死骸の中を遊覧しているような気分だった。

小指『偶偶放浪記』(白水社)P.69より
小指『偶偶放浪記』(白水社)P.69より

 少し歩くと、住宅街に入った。人の気配は相変わらずないのに、所々に目を見張るような、古くて美しい石造の建物が立っている。駅前はあんなに面白みがないのに、駅から離れれば離れるほど興味を惹かれるものが増えていった。

小指『偶偶放浪記』(白水社)P.69より
小指『偶偶放浪記』(白水社)P.69より

 空き家の多い静かな道を歩いていると、「サニー」というえんじ色の看板の喫茶店が目に入った。まさかこんな場所に喫茶店があるなんて夢にも思わなかったので嬉しくて窓を覗くと、営業しているようだった。ドアをそっと開けると、女性の店主さんが「いらっしゃい」と迎えてくれた。

 自然光だけの、仄暗い店内。床はコンクリートが剝き出しで、レジ横にあるストーブの上でやかんを沸かしていた。その中を、どこかでかいだ憶えのある匂いが空間いっぱいに満ちていた。

 「これ、子供の頃に通ってた小児科医院のにおいだ!」

 私がそう言って興奮すると、ツポールヌが「これは石油の匂いだよ」と言った。子供の頃に嗅いだあの匂いの正体は、石油ストーブだったんだ。昔の思い出が蘇り、それが知れただけでも石岡へ来てよかったと嬉しくなった。

 私たちは席につくと、店主の女性にコーヒーを頼んだ。

 店内をゆっくりと眺める。メニューの看板が木でできていて、ソファも他の家具も茶色で統一されていた。カウンターの上には色々載っかっていて家っぽさがあるが、照明などの装飾品をよく見ると一つ一つがおしゃれで、きっとこの店を作った時相当こだわったんじゃないかなと思った。

 トイレに行っていたツポールヌが、「ボットン便所だった!」と嬉しそうに戻ってきた。ボットン便所なんて今時あるのかと思う人も多いだろうが、茨城県は意外に多いのだ。というか何を隠そう、こいつの家も現在進行形でボットン便所だった。

 思わぬ便所の共通点により、一気に親近感が湧いたらしい。普段だと喫茶店へ行ってもすぐに帰りたがる男が「ボットンだったよ、ここ。すごいねぇ」としきりに褒め、終始楽しそうに過ごしていた。

 「お店、素敵なので写真撮っていいですか」と店主に尋ねると、「古くて仕方ないんだけどねえ」と少し恥ずかしそうにしながら快く許可してくれた。カメラを構えて改めて店内を見渡すと、そこで初めて自分たち以外に客がいたことに気づいた。一番隅の席にいたその男性は、禅の「無」の如く気配を消してスポニチを読んでいた。

 

【小指『偶偶放浪記』(白水社)所収「まぼろしの町 石岡」より】

 

小指『偶偶放浪記』(白水社)P.78より
小指『偶偶放浪記』(白水社)P.78より

  

◉漫画家・随筆家の小指さんによる『偶偶放浪記』の刊行を記念し、翻訳家の岸本佐知子さんとのトークイベント(2024年8月10日土曜日、13:00〜14:30、青山ブックセンター本店を開催します。 

 

 

◉小指『偶偶放浪記』(白水社)より「寄居旅行記」を一挙紹介。

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