未知のウイルスがやって来て、家にいましょう、が合言葉になりました。一日の平均歩数三百歩、「家から出ない王」の名をほしいままにする私でさえ息苦しさを感じるほどですから、若くて元気で活動的なみなさんが、学校に行けず外にも出られないつらさは、想像するにあまりあります。そこで、体は一歩も動かさないまま脳内で旅することのできる本を、いくつかご紹介したいと思います。
ここと違う世界
まず、距離的にも心理的にもうんと遠くまでぶん投げられたい人には、筒井康隆『虚航船団』をお勧めします。舞台は巨大な宇宙船。乗組員はコンパス消しゴムホチキスなどの文房具。ほぼ全員が長旅のために発狂しています。彼らは惑星クォールに住む鼬(イタチ)族を殲滅(せんめつ)するという使命を帯びて、宇宙空間をはるばる旅しているのです。お前はいったい何を言っているのかと言われそうですが、じっさいこれほど変な小説はちょっとありません。人間なんか一人も出てきません。文具船内の人間(じゃないけど)模様を描いた第一章、壮大な世界史の語り直しともいうべき第二章の惑星クォール史、そして文具たちとイタチ族との壮絶な戦闘を描く第三章まで、時に神話、時に史書、時にドタバタギャグの語りを織りまぜつつ進む、これは長大な絵巻物なのです。読むほうも正直気合がいります。けれども、これほどまでに人間の想像力の凄(すさ)まじさを思い知らされた本を、私はほかに知りません。
韓国の作家チョン・ソヨンの『となりのヨンヒさん』も、こことはちがう世界に連れていってくれる作品集です。この本が面白いのは、人類が火星に移住していたり、パラレルワールドとの行き来が可能になっていたり、人間の体が機械化していたり、そんなSF的な設定が、何ということのない日常の一部として描かれていることです。表題作では、主人公の女性がマンションで異星人と隣どうしになります。茶色いガマガエルみたいな外見の彼らは地球人から忌み嫌われていますが、彼女はそんなお隣さんをお茶に誘ってみます。かみ合っているような、いないような二人の淡い交流はある日終わりを告げますが、彼女の心にふしぎな種のようなものを残します。どの話でも描かれるのは、異質な者どうしが壁を越えて、それでもつながろうとする姿です。それはつまり人間にとって最も大切な営みの一つで、だからどの話もファンタジックでありながら、胸の中のいちばん親密な感情を優しく揺さぶります。
誰かの生に跳ぶ
見知らぬ誰かの人生にダイブするのもまた旅です。エドワード・ケアリー『おちび』は、アルザスの貧しい家に生まれた少女マリーが、蠟(ろう)人形作りの師と出会い、フランスの宮廷に仕え、革命に巻き込まれて投獄され、ギロチンをからくも免れてロンドンに行き、蠟人形館を開いて大成功をおさめる――そう、あのマダム・タッソーの生涯を彼女の視点から語った、いわば架空の自伝です。大筋では事実に基づきながら(なんという波瀾〈はらん〉万丈の人生!)、作者が空想をふくらませた人物や出来事もふんだんに盛り込まれて、ページをめくる手が止まりません。何よりも、強くしぶとく誰にも媚(こ)びず、自分の心に忠実で、醜いものやちっぽけなものにも等しく心を開くマリーの人物像がたまらなく魅力的です。
変わった案内書
最後に小説以外のものも一冊。〈表現不能島〉〈破滅町〉〈ユートピア〉〈死〉……なんとこれ全部、実在の地名です。『世界でいちばん虚無な場所』は、世界じゅうの奇妙な名前をもつさまざまな場所を、地名の由来や来歴、さらには関係ないウンチクまで交えて紹介する、いっぷう変わった旅行ガイドです。私のおすすめの読み方は、最初に地名を見て、どんな場所か、なぜそんな名前がついたのかを想像してから、本文を読んで答え合わせをするやり方です。ちなみに作者のダミアン・ラッド氏は大の旅行ぎらいで、ここに登場する場所にはいっさい足を運ばず、調べ物だけでこの本を書き上げたそうです。つまりは彼もまた脳内旅行の実践者だったんですね。=朝日新聞2020年4月18日掲載