「学術書の価値を伝えていく」大学出版の使命 橋元博樹・大学出版部協会理事長に聞く
記事:じんぶん堂企画室
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――日本における大学出版の成り立ちについて教えてください。
橋元 日本の大学出版の創設は19世紀末まで遡ります。現存する組織と繋がっていて一番古い大学出版は、1886年に創設された早稲田大学出版部です。当初の主な目的は講義録を通信教育の学生に向けて販売することでした。それから東京電機大学出版部が1907年、玉川大学出版部(前身のイデア書院)が1923年に創設されました。
ちなみに(慶應義塾創設者の)福澤諭吉が出版事業「福澤屋諭吉」を始めたのは1869年なので、それを大学出版のルーツだと言うこともできます。ただその後社名や組織が変わったりしていて、現存する慶應義塾大学出版会の創業は戦後でした。
――海外ではどうだったのでしょうか。
橋元 アメリカの大学出版部も19世紀の同じ頃に創設されました。アメリカ最古のジョンズ・ホプキンズ大学出版局が1878年創設です。世界で最も古い大学出版はイギリスです。15世紀にはオックスフォード大学が、16世紀にはケンブリッジ大学が出版を開始しました。当時は印刷業者で「University Printer」という呼び方をしていたようですが、主に宗教書の複製を行っていました。グーテンベルク印刷機の登場によって出版が始まった最初期から大学出版は活動していたのです。
――日本の大学出版はどのような目的で創設されたのでしょう。
橋元 早稲田大学の場合は講義録の出版で、慶應義塾の場合は福澤諭吉の個人的な出版活動でしたが、多くの場合大学出版は、大学の先生が自分たちの研究業績を、自分たちで出版しようと考えて創設しました。
例えば、1951年に創立した東京大学出版会は、大学教員の有志が寄付を募って、自分たちの出版活動を始めようと立ち上げました。当時はすでに学術出版社は数多く活動していました。東大文学部の先生方は岩波書店と、医学部は金原商店(医学書院、金原出版)、法学部は有斐閣などと強い繋がりがあったんです。それでもやはり、先生たちは「日本でもオックスフォードのような出版部を作りたい」と考えました。そのように大学出版というのはどこであっても、文字通り大学が出版の当事者として、研究業績を社会に公開してきました。
――その根幹は現在にいたるまで変わっていないということでしょうか。大学出版の使命とはどういうものですか。
橋元 そんなに激動の変遷があるわけではないと思います。大学出版のミッションには三つの柱があって、学術書と教養書と教科書を刊行することです。
学術書は研究者の研究業績を研究者コミュニティに向けて発信する。それに対して、教養書というのは一般向けにわかりやすく書くものですね。それから教科書は大学の授業で使うテキストです。
三つの中でも一番核となるのが学術書です。大学出版は研究者に寄り添って、研究業績の受け皿になる役割があります。時には採算が取れないような市場性のない本も世に送り出します。一般の出版社にはなかなかやりづらいことを、大学出版が請け負ってきた歴史があります。
とはいっても、大学出版も出版社なので、売ることを目的としないわけにはいきません。単に経済的な話だけではなくて、広い読者に届けるという意味でもきちんと売ることは大事です。
――書籍の電子化の流れについてはどのように考えていますか。
橋元 ここ20年ぐらいで電子化に大きく比重を傾けるような時代になってきました。多くの大学出版部や学術出版社が関心を持っていて、取り組みをスタートさせています。
実は学術書の電子化は早かったんです。世界では2000年前後から特に自然科学系の研究者を中心として、オンラインジャーナルが登場しました。今でも自然科学系の研究者は、書籍は読まない・書かないという人は多い。研究業績となるのは、書籍よりも論文、特に英語の論文を書くことなんですね。我々の仕事はそうした中でも、紙であろうが電子であろうが、一冊の本を書いていただくということです。それは変わらず今まで通りやっていきたいです。もちろん電子化は取り組んでいきますが、書籍を出版するという価値を我々がアピールしていかないといけません。
――論文と比べた時の書籍の意義や魅力とは何でしょう。
橋元 論文というのは、研究者が先行研究を踏まえた上で新しい知見を加えて、研究者に向けて発表するものです。一方、書籍にする場合は、それらの研究成果をベースとしながらももっと広い読者に向けて作っています。専門家コミュニティだけではなく、その外側にいる一般の読者、隣の研究領域の研究者などに向けています。そこでの論文と書籍の一番大きな違いとして、多くの場合書籍には編集者が介在するという点があります。
商品かどうかの違いも大きいでしょう。売り物を作るというと一見ネガティブな印象があるかもしれません。でも著者も編集者も出版社も、売るためにはいいものを作ろうとします。例えば、読みやすい文章にしたり、目次や章立てを工夫したりする。そうしたプロセスが書籍の強みともなります。
――最近、大学出版で話題になった本を教えてください。今回、学術書と教養書を一冊ずつ推薦書として選んでいただきました。
橋元 まずは学術書としては『杉浦康平と写植の時代』(慶應義塾大学出版会)。デザイン論の研究をされている阿部卓也先生が、著名なブックデザイナー・杉浦康平さんと写植を題材に、日本のブックデザインの歴史について論じています。
毎日出版文化賞やサントリー学芸賞を受賞するなど、非常に高く評価されて話題になりました。こういう分野の研究書は今まで出ていなかったので、本当に先駆的で優れた作品だと思います。同時に、専門的な知識がないと読めないような難解な本ではなく、一般の人も読みやすいように工夫されています。そして、ブックデザインの本だけあって、装丁もきれいですね。
――もう一冊は、大学出版らしくない意外な本とのことでした。
橋元 『言語学バーリ・トゥード Round 2』(東京大学出版会)です。言語学の研究者・川添愛先生がプロレスや芸能ネタをうまく使いながら、我々が普段テレビなどで耳にする言葉を分析しています。レイザーラモンRGの「あるあるネタ」はなぜ面白いのか、「飾りじゃないのよ涙は」という倒置はなぜ印象に残るのか。そうしたトピックが言語学の観点から論じられます。
文章がとても巧いので、楽しく読むことができるはずです。1巻目がとても話題になってメディアでも多く取り上げられたんですが、今回はその2巻目になります。装丁も賑やかで、学術書っぽくないですね。学問の面白さをなるべく広い読者に届けられたらと思っています。
――出版不況と言われる中、大学出版は何か意識をしていることはありますか。
橋元 出版業界が厳しい状況にあるのは、日々実感をしているところです。ただ、その厳しさの一つは雑誌の落ち込みです。書籍ももちろん売り上げが落ちていますが、雑誌ほどの激減ではないんですよね。
書籍は出版業界の人たちがなんとか頑張って残していこうと動いている。ただ日本の出版業界は、雑誌が落ち込んで、書籍だけが生き残るという風になっていなかった。どちらも同じような仕組みの中で流通されていったので、雑誌の売り上げが落ちてくると、その流通のシステムが維持できなくなっている。書籍だけの出版流通になった時に、どのようにデザインをし直すかということが今の課題です。
出版業界といっても、エンタメからビジネスまで様々なジャンルがあります。その業界の中で、わたしたちは大学出版や学術出版を守っていくべきだと思うんです。そのためには、学術書の価値を社会にしっかり伝えていかないといけません。研究者コミュニティの中で、どのような価値を提供できるのか。一般社会の中でどんな価値を提供できるのか。それを我々自身が捉え返し、しっかりと世の中に問うていきたいと考えています。
――大学出版においては、学生という存在をどのように意識していますか。刊行された書籍が学問の世界の入り口になることも多いと思います。
橋元 いろんな統計データを元に「学生が本を読まなくなった」とずっと言われてきました。でも一方で(全国学校図書館協議会の調査など)小学生・中学生は実は本を読んでいるというデータもあります。だからあまり学生は本を読まないと思い込まない方がいいかなと思っています。
わたしたち東京大学出版会も、高校生を読者として意識をしています。東大のオープンキャンパスでブース販売を行うと、高校生が結構難しい数学書などの学術書を購入するんです。もちろん東大を受けるような高校生なのですが。世の中には世代を問わず、読書好きな人が必ずいます。雑誌などのエンタメ系の出版が苦境にあるのは、インターネット上で手軽に無料情報が得られていることがあります。一方、学術書の読者は、インターネット上の無料情報だけで満足するということはないはずです。今後、読者が急激に減ることはないかなと考えています。
――これからの大学出版の取り組みについて教えてください。
橋元 大学出版が目指していくこととして、電子化と国際化があります。電子化については、まだまだ大学出版・学術出版社が取り組む余地が大いにあります。
そして電子化といっても、書籍を電子書籍として発行すること以外にも、様々な側面があります。近年は書店店頭に陳列している学術書が少なくなっています。これまでのように書店で、読者が、本と触れて購入に繋がるということが、だんだん学術出版に関しては少なくなってきているんです。その代わりに読者はオンラインで本のことを知って購入する機会が増えている。大学出版も電子書籍を作るというだけではなく、オンラインでの宣伝活動・営業活動を活発にすることが課題です。そうしておけば、オンラインを通して海外でも宣伝・流通・販売させることは難しくないと考えています。
オンラインの時代になって何が変わったかというと、SNSなどで出版社が読者と直接繋がることができるようになったことです。本をめぐる世界は、出版社がいて取次があって、書店員がいて読者がいるという繋がりだけではなくなりました。著者が直接読者と繋がっていくこともできます。もっとそれを利用して、読者のコミュニティや研究者のコミュニティにアプローチしていきたいと考えています。