「源氏物語」の新たな魅力に触れる! 『名場面で愉しむ「源氏物語」』著者、安田登氏インタビュー
記事:平凡社
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――これまで『古事記』や『万葉集』、そして『平家物語』、『太平記』など古典をテーマにした書籍に数多く関わってこられた中で今回、『源氏物語』にフォーカスした理由についてお話しいただけますか。
安田登(以下、安田):『源氏物語』は今ではとても好きで面白いと感じていますが、実は、学生時代はかなり苦手意識を抱いていました。友人から「ぜひ読んでみるといいよ」と薦められるのですが、途中で挫折してばかり。そんな私が『源氏物語』と向き合うことができるようになったのは、能を始めてからのことでした。
能の中には『源氏物語』に取材する作品が十曲以上あります。それらの演目を謡ったり、演じたりするうちに『源氏物語』の素晴らしさを知るようになっていったのです。その能の作者が演目を作る上で大切にしている姿勢があります。「名場面」主義と「原文」重視、この2点です。あらすじで物語を説明するのではなく、名場面を選び出し、その場面の原文を、ほぼそのまま使います。こうした背景もあり、今回の本でも、「“名場面”に焦点をあてる」「原文を重視する」ということに重きを置くようにしました。
――原文を重視なさっている安田さんの視点から、紫式部が描く文章はどのように感じておられますか? そして紫式部の文章の魅力についてお話しいただけますか。
安田:繰り返し原文を読んでいきますと、紫式部の文才、とりわけ感覚描写の巧みさに読むたびに感心させられます。彼女は「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の5つの感覚、つまり五感を大事にしながら『源氏物語』を書き進めていったのではないかと思います。そしてそれらの五感を、個々のものとしてではなく、いくつかの感覚が混ざり合った描写があります。ある場面では「視覚」と「聴覚」、また別の場面では「嗅覚」と「聴覚」というようにうまく組み合わせているのです。そうすることで、この「源氏物語」は五感を超えたその先の感覚、「共感覚」を味わうことができるのです。
――なるほど。「五感」や「感覚」という視点から『源氏物語』を読むというのは新鮮ですね。
安田:あとは、やや専門的になってしまうのですが、紫式部の原文を読んでいると、音声の長短、アクセント、子音・母音の一定の配列などで作り出される言葉のリズム、「韻律(いんりつ)」を大切にしているなと感じるところが多々あります。漢詩や欧米の詩などでは、句末や行末で類音と同音を反復する脚韻(きゃくいん)、そして句頭や語頭に、同一の音をもった語を繰り返して用いる頭韻(とういん)などがよく用いられますが、日本語ではあまり馴染みがありません。ですからその分、紫式部は子音と母音をうまく組み合わせる内部韻律をうまく使いながら文章を書いています。物語を読んで聴かせるということで作られていたので、聴き手を重視した文章構成にしたのでしょうね。
――『源氏物語』は全部で五十四帖あり、ページ数の関係もあって今回の本では第十三番目の帖である「明石」まで取り上げておられます。本書で取り上げた帖の中でとりわけ思い入れがある帖についてお話しいただけますか。
安田:うーん、答えるのが非常に難しい質問ですね(笑)。1つに絞り切れません! あえて選ぶのであれば第四帖「夕顔」の帖でしょうか。本でも書きましたが、この「夕顔」帖は、日常のすぐ横にある幻想の異世界に入り込んでしまったような、そんな世界が描かれた帖です。そして夕顔という自分の内面を語らない女性に惹かれる光源氏が次第に恋の物狂いになっていく姿も描かれます。何を思っているのかよくわからない人と付き合うと、相手のことをあれこれと想像しなくてはなりませんよね。光源氏も相手の苦しみを思うことでようやく「人を思いやる気持ち」、「エンパシー」を身に付けるわけです。女性の気持ちがわからないボンボンから相手のことを思いやる「エンパシー」を持つ、そんな人間に成長した様子を垣間見ることができるのも「夕顔」帖の面白さの一つですね。
――本書を読むと、「末摘花」帖にも強い思い入れがあるように感じられましたが、いかがでしょうか。
安田:はい、そのとおりです(笑)。「末摘花」帖は、末摘花の容貌についてよく語られますが、私の場合は彼女の容貌ではなく、彼女自身のストーリーとして捉えています。この帖は待ち続けて救済される女性、つまり「シンデレラストーリー」として読むと非常に面白いのではないかと思っているわけです。
また、末摘花は紫式部の描写を読む限り、不美人ではなかったのではないかと思っています。詳しくは本書をご覧いただきたいのですが、もし末摘花がいまの時代に生きていたとすれば、美人といわれる女性だったのではないでしょうか。そして、紫式部自身、末摘花は不美人な女性という意識で書いたのではないと思われる描写もあります。
だいたい光源氏自体が当時、美人だと言われていた女性にはあまり興味がひかれません。これは現代のルッキズム批判にもつながるかも知れません。当時は政治や社会はもちろん、文化の面でも男性中心でした。紫式部はそんな男性文化の中で「女性のほうがいい!」「男性文化よりも女性文化のほうが優れている!」ということを積極的に主張したかったのだと思います。
――今、わりと古典のよさを再発見するというような流れもあり、古典に親しむ方が増えているように感じます。また本書を手に取り、「『源氏物語』を原文で読んでみたい」と思われる方もいらっしゃることでしょう。これまでさまざまな古典に親しんできておられた安田さんから古典に親しむコツをお話しいただけますでしょうか。
安田:「現代語訳」と「原文」のセットで読むことです。どこでもいいですから、まずは好きなところを選びます。そしてその原文を声に出してゆっくりと読みます。覚えてしまうくらいまで何度も繰り返して声に出して読みます。さらに暗記したものを思い出して脳内で反芻する「反芻読み」をする。すると時々、「あれ、これってどういうこと?」と思うところが出てくることがあります。そういうときに現代語訳にあたったり、辞書や事典を引いてみる。何も焦って読むことはなく、ゆーっくりと読んんでみることです。
――身体の芯までしみ込ませるような感じですね。
安田:『源氏物語』は登場人物も多いですし、それぞれ魅力的な性格を持っています。なので、「源氏物語ごっこ」も楽しいかもしれませんね。「え~!何それ」という方もいらっしゃると思いますが、鎌倉時代後期の『とはずがたり』には「源氏物語ごっこ」に興じる話も出てきますよ。『源氏物語』をもとに作られた能もある意味、「源氏物語ごっこ」といえます。ご自宅や学校などでぜひやってみてください。
――さきほども話題に出ましたが、『源氏物語』は非常に長くて壮大な物語です。何度も途中で挫折する読者も多いと耳にします。紫式部はどのような気持ち、意識を持って書き進めていったと思いますか。
安田:これは想像の範囲でしかお答えできませんが、紫式部は最初から「ああしよう、こうしよう」とある程度は計画を立てて書いていったのではないでしょうか。長い物語といえば頭に思い浮かぶのは、『ゲド戦記』です。『ゲド戦記』は、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説です。なんと約30年という長い時間をかけて書かれました。『源氏物語』も『ゲド戦記』のように、それ相当の時間をかけてまとめられたのではないでしょうか。その間、作者である紫式部も年を重ね、また周囲の人間関係や社会も変化していきます。作者自身も成長し、読者も成長する、書き手と読み手の成長の物語でもあるのかもしれない、そう感じています。そういう意味でも『源氏物語』は、文字通り、壮大な物語であると言えますね。
[インタビュー=平凡社編集部・平井瑛子]