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大河ドラマで話題! 「和歌」で愉しむ「源氏物語」

記事:平凡社

もはや世界中で愛読されている「源氏物語」を和歌からも味わうのも愉しみの一つ
もはや世界中で愛読されている「源氏物語」を和歌からも味わうのも愉しみの一つ

平凡社新書『百首でよむ「源氏物語」』(木村朗子著、平凡社)
平凡社新書『百首でよむ「源氏物語」』(木村朗子著、平凡社)

私たちの物語

 平安宮廷は女たちが仮名文字で書いた物語が次々と生まれた時代である。物語の祖といわれる『竹取物語』は、月からかぐや姫がやってきて男たちが次々と求婚するのに無理難題を押し付けて断った挙句、月に帰るというSFまがいの物語だった。あるいは船が難破して天竺てんじくにたどりついて阿修羅や天人たちと交流し、空を飛ぶなどというファンタジー展開からはじまる『宇津保物語』という物語がある。それらに比べると『源氏物語』は、宮廷社会の現実やそこに生きる人間の心理をじっくりと描いたリアリズム小説なのである。

 いやいや、『源氏物語』だって、六条御息所が、生き霊となり死後には死霊となって女を取り殺したりするなど、かなり奇想天外ではないか、という人があるかもしれないが、平安宮廷社会において、物の怪は現に存在し、対処しなければならない禍いであった。実際に、平安宮廷には陰陽寮が設置され、陰陽師が常駐していたのだし、密教や修験道で験力のある僧侶たちが外から呼ばれて対応することもよくあることで、物の怪というのは病いの一形態として認識されていたからである。(本書「序章」より一部抜粋、本記事用に改変)

光源氏が流された須磨。第一部の「須磨」は「源氏物語」の中でも和歌の数が多い
光源氏が流された須磨。第一部の「須磨」は「源氏物語」の中でも和歌の数が多い

物語と和歌

 この時代の物語にはかならず和歌が含まれている。世界文学の歴史をみると詩と散文つまり韻文と散文とは別々に発達していき、韻文が発達したあとで散文小説がでてくるのが文学史の流れとなっているが、日本文学においては散文のなかに韻文がとりこまれていて同時に発展していったのである。同時に発展といっても、和歌を詠むことは文学的才能があろうがなかろうが宮廷社会で日常的に行われていたのであって、手紙をかけば歌を添え、宴会では歌を詠み合うといった具合に歌はコミュニケーションの一手段としてあるいはマナーとして身につけているのが当たり前だった。したがって、架空の物語においても登場人物が歌を交わさないのは不自然だということになる。

 和歌にはことば書きといって、その和歌が誰によってどんな状況で読まれたかを説明する一文がついていることがある。歌が交わされたシチュエーションを深追いしていけば自ずと歌にまつわる物語が出来上がるわけで、とくに恋歌には、いったいどんな関係の二人の歌なのかしらんなどと恋物語の楽しい想像へと人々を誘う種がそもそも内包されている。ゆえに歌物語というジャンルがあるわけである。『伊勢物語』などは、在原業平の歌を主に使ってまとめられた短編物語集であり、和歌を軸として物語化されたものが集められている。(本書「序章」より一部抜粋、本記事用に改変)

梅の香りを直接表現せずとも、それが伝わる和歌も詠まれている
梅の香りを直接表現せずとも、それが伝わる和歌も詠まれている

『源氏物語』の魅力とは

 これほどまでに世界の読者を惹きつけてやまない作品でありながら、日本で学校教育を受けた世代にとって『源氏物語』は単に受験のために学習しなければならないものにすぎず、読書の楽しみを与えてくれるものとは認識されていない。これは非常に残念なことである。

 というのも、これほどの筆力を持つ作家は世界にもそうそういないだろうと思えるほど、『源氏物語』は小説として圧倒的におもしろく、かつ高度に洗練されているからである。あえて原文で読まなければならないとは思わない。私たちは、バルザックだってドストエフスキーだって日本語訳で読んでいるのだから、『源氏物語』を現代語訳で読むのでもまったくかまわないと私は思う。現代語訳は、各種そろっているし、それはいますぐにでもはじめられるだろう。

 ただし、『源氏物語』には登場人物の詠んだ和歌が大量に含まれているのである。和歌は五七五七七で構成されており、三十一文字におさめられたことばのリズムがものをいうので、『万葉集』でも『古今和歌集』でも原語のまま愛唱されてきた。和歌の現代語訳がぴったり三十一文字で行われる例は、ロイヤル・タイラーの英訳で母音のシラブルを三十一に合わせたものなどがあるとして、ほとんど存在していない。

 『源氏物語』を現代語訳で読むときの最大の問題は、実はここにある。現代語で解説された和歌はすでに和歌のかたちを失っているのである。そういうわけで『源氏物語』を現代語訳で読む場合には、和歌の部分をつい読み飛ばしがちにしてしまうといううらみがある。

 考えてみれば、古語そのままの和歌を理解できるのは、古典語の教育を受けた者の特権でもある。古典語が読めない、苦手だと思っていても、不思議と百人一首の和歌をおぼえていたりはするものだ。意味はきちんと理解できなくても、ことばの耳ざわりをなんとなく手にしているのだと思う。たとえば神を呼び出す枕詞の「ちやはふる」ということばが漫画やアニメをとおして妙に身近だったりすることも学校教育のたまものといえるかもしれない。

 五七五七七で成り立つ短詩形の和歌の文化は、いまなお短歌として受け継がれており、新聞歌壇には投稿が途切れることがない。こうした和歌あるいは短歌の音を味わいながら、平安宮廷社会を描いた『源氏物語』の世界にふれてみよう。(本書「序章」より一部抜粋、本記事用に改変)

蕨や芋などの植物や野菜を和歌に織り込みながら自らの気持ちを表現した和歌も
蕨や芋などの植物や野菜を和歌に織り込みながら自らの気持ちを表現した和歌も

本書に掲載されている主な和歌

桐壺 
 限りとてわかるゝ道のかなしきにいかまほしきは命なりけり
帚木
 はゝき木の心を知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな
空蟬 
 空蝉の羽におく露の木がくれて忍び忍びに濡るる袖かな
夕顔
 心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
 寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
 過ぎにしもけふ別るるも二道に行くかた知らぬ秋の暮かな
若紫
 手に摘みていつしかも見む紫の根に通ひける野辺の若草
 ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを
 かこつべきゆへを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん
末摘花
 なつかしき色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ
など

[構成=平凡社編集部・平井瑛子]

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