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サイレント映画から運動会へ 《天国と地獄》受容を追っ駆ける

記事:春秋社

柴田康太郎 著『映画館に鳴り響いた音 戦前東京の映画館と音文化の近代』(春秋社)
柴田康太郎 著『映画館に鳴り響いた音 戦前東京の映画館と音文化の近代』(春秋社)

 運動会の徒競走などで使われる定番曲に《天国と地獄》がある。「文明堂のカステラ」の音楽といえば、あの曲かと思い浮かべられる方も多いかもしれない。

 この曲はもともと1858年にパリで初演されたジャック・オッフェンバック作曲のオペレッタ《地獄のオルフェウス》中の一曲だった。「天国と地獄」はこのオペレッタが1914年に帝国劇場で日本初演されたときの邦題である。「地獄のオルフェウス」などという字面はおどろおどろしい気がするが、作品はいわばグルックのオペラ《オルフェオとエウリディーチェ》(1903年に日本人が最初に上演したオペラとされる)のパロディで、《地獄のギャロップ》と呼ばれる件の楽曲も実は神々のドンチャン騒ぎの酒宴の音楽でもある。

 そう考えると不思議である。19世紀フランスのオペレッタにおける神々が地獄でおこなう酒宴の音楽が、どうして日本の小学生たちの運動会で流れるのだろうか。

 オペレッタ《地獄のオルフェウス》は1858年の初演のあとパリで早くから人気演目となったが、《地獄のギャロップ》が広く知られるようになったのは、オペレッタ以外の場で使われたからである。1860年代のロンドンのミュージック・ホールで、女性ダンサーが一列に並んでスカートをまくって足を振りあげる「カンカン・ダンス」の音楽に使われたのだ。これが1890年代にパリのムーラン・ルージュなどのミュージック・ホールに逆輸入されたことで、この曲はカンカンの音楽として広く知られることとなった。件のCM「文明堂豆劇場」で人形たちが一列に並んで踊るのは、これを受けてのものだろう。

 日本の場合も、このオペレッタは1914年に帝国劇場で初演されたあと、早くから人気演目となった。1916年には赤坂のローシー・オペラで、1918年には浅草オペラの拠点のひとつ日本館で上演されている。もっとも、日本でもこの曲が広く知られるようになったのはオペレッタ以外の場で使われたからのようだ。しかしどうも日本ではこの曲が早くから「踊ること」より「走ること」や「競うこと」と奇妙な因縁をもっていた。《天国と地獄》はサイレント映画にお決まりの「追っ駆け」場面の定番曲として日本でよく使われた曲になったのだ。

ロートレックのポスターにおけるフレンチ・カンカン
(エグランティーヌ嬢一座公演ポスター、1896年)
ロートレックのポスターにおけるフレンチ・カンカン (エグランティーヌ嬢一座公演ポスター、1896年)

 映画上映が始まってから30年ほど、映画フィルムには音がついていなかった。だが「サイレント映画」も無音で上映されたわけではなく、弁士の語りとともに、クラシック音楽からポピュラー音楽までのいろいろな既成曲が映像に合わせて生演奏されるのが常だった。拙著『映画館に鳴り響いた音』では、そうした戦前の映画館で響いた音楽にさまざまな角度から光を当てたが、準備の過程で資料を見ていると何度も《天国と地獄》の名に出くわした。

 大正時代の映画ファンだった久江京四郎は、《天国と地獄》は1917年11月ごろに浅草帝国館という映画館で上映されたアメリカの連続映画『灰色の幽霊』を契機に流行したと述べている(当時はテレビ・ドラマのように週替わりで少しずつ続きが上映される「連続映画」とされるシリーズがあった)。作家の正岡容もまた、大正末期の「連続探偵大活劇」の上映では「例の「天国と地獄」の音楽が、必らず追駈のとき演奏された」といい、浅草帝国館で1917年3月11日より封切られた連続映画『紫の覆面』の「ヒコーキで追ふ所」で使われたあと、1920年1月24日公開の連続映画『深夜の人』で使われて人口に膾炙したと述べている。二人の間で1917年に浅草帝国館を発信源としてこの曲が広まったという認識が共通しているのだ。

 すると、オペレッタの「地獄の神々の酒宴のダンス」が、ミュージック・ホールの「カンカン・ダンスの音楽」になったあと、日本ではサイレント映画の「追っ駆けの音楽」と結びついて、最後に運動会の「駆けっこの音楽」になったと考えられそうだ。

《天国と地獄》が使われたという連続映画『紫の覆面』の新聞広告
(『都新聞』1917.3.10)
《天国と地獄》が使われたという連続映画『紫の覆面』の新聞広告 (『都新聞』1917.3.10)

 いつから運動会で《天国と地獄》が使われたかは目下のところ定かではない。運動会の《天国と地獄》にふれた比較的早い資料として私がみつけられたのは、サイレント時代が終わって20年も経った戦後の文献である。たとえば『運動会事典』(1958年)には「騎馬戦」や「来賓競争」で使える音楽として《天国と地獄》が挙がっている。実は他の競技の音楽としてこの本で挙げられる曲には、映画館でよく演奏されたレパートリーが少なくない。ただし、各曲の使用法はサイレント映画の使用法に重なるものばかりではない。「大玉ころがし」に挙げられた《波濤を越えて》は、サイレント映画の伴奏では「海の場面」などで使われた曲だったが、あまり関係はないだろう。映画館でよく使われた有名曲だったために運動会で使われるようになったという面もあるはずだ。《天国と地獄》も「来賓競争」は「追っ駆けの音楽」の延長に理解できるが、「騎馬戦」はすこし異なる使い方である。

 ところが、《天国と地獄》については「追っ駆け」と異なる使い方についての回想も残っている。宮沢賢治の弟の清六によれば、1917年頃(浅草帝国館で《天国と地獄》が使い始められた頃である)に農林学校在学中の賢治とともに盛岡の藤沢座で「最も新しい欧州大戦争の実写」の「戦車の大活躍」を見たとき、この曲が使われていたと述べている。「これより女性タンクの大活躍・・・・・・」という弁士の声とともに「“天国と地獄”の勇ましい伴奏」で上映された映像は、のんびりした戦場で戦車が左から右へ動く映像をループ上映するだけだったので、兄弟は思わず噴き出してしまったという(宮沢清六『兄のトランク』ちくま文庫、47-48)。このような使用法は、騎馬戦の音楽にも重なるものといえそうだ。

 大正期の映画ファンは、映画館でさまざまな場面の映像とともに音楽を耳にすることをとおして、西洋音楽と映像や物語のイメージを結びつけていた。言葉をもたない異国の器楽曲は映画館で何度も耳にされることで特定のイメージを増幅することになった。文学者の埴谷雄高は、政治思想史家の丸山眞男と語らいながら、新宿武蔵野館などでサイレント映画の伴奏音楽を聴いて西洋音楽に親しむようになったといい、次のように回想している。

不気味な場面には〔ベートーヴェンの〕「コリオラン〔序曲〕」、もちろん嵐の場面は「田園」だ。それから哀しい場面には、必ず、マスネーの「エレジー」かショパンの「雨だれ」、この二つにきまってる。そして軽快な場面にはシューベルトの「ミリタリマーチ」とかね。〔…〕「ウィリアム・テル」も必ずやった、嵐の場面と勇壮な進軍の場面にね。埴谷雄高・丸山眞男「文学の世界と学問の世界」『埴谷雄高全集15』2000年、207-208頁

当時の観客たちにとって、《天国と地獄》からベートーヴェンやショパンまでの西洋音楽は、いまの映画のサウンドトラックのように受け止められていたのである。

ここで《天国と地獄》は「騎馬戦」の音楽として挙げられる
(古屋三郎『運動会 少年少女体育全集6』ポプラ社、1960年、52頁)
ここで《天国と地獄》は「騎馬戦」の音楽として挙げられる (古屋三郎『運動会 少年少女体育全集6』ポプラ社、1960年、52頁)

 《天国と地獄》の音楽は欧米でもサイレント映画上映でも使われたが、これが追っ駆けの音楽として知られたかは定かでない。だが《天国と地獄》を「カンカン・ダンス」の音楽として認識していたら「追っ駆け」の音楽や「勇ましい」音楽と記憶することはなさそうだ。運動会の音楽とサイレント映画の音楽などというとまったく無関係なもののように思えるが、サイレント時代の映画館は、日本人の耳を西洋音楽に慣れさせ、さまざまな映画のイメージと音楽のイメージを結びつける独特の場であったのである。サイレント時代の映画館は、運動会のような日常にもゆるやかにつながるような現代の音楽文化の下地をなしているといっても過言ではないのである。

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