フィクション/ノンフィクションのあわいで
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
「人文書をつくる編集者」の連載にお呼びいただいた。何という光栄! と気持ちが弾む反面、戸惑いもしている。この連載の第一回、第二回、いずれの執筆者も“人文書編集者”というアイデンティティに対して揺らぐ思いを述べていらっしゃり、その符合が嬉しかった。そして、「人文書編集者」を名乗ることのある種のむつかしさの理由についても考えさせられた(人文書ってなんだろう?)。
わたしの戸惑いの理由は明確で、「本業が“文芸編集者”だから」である。2015年に「すばる」という文芸誌に新卒で配属となり6年在籍、2020年に文芸単行本の部署に移り、4年ほど本づくりを経験した。単行本の編集者として関わった人文書は、おもに自分が「すばる」の片隅で興奮しながら立ち上げた連載の単行本化(タイミングよく、連載がちょうど本になりそうなタイミングで異動が決まったのだった)で、改めて、文芸誌という「場」の懐の深さを痛感する。表現空間として限りなく自由で、小説連載を担当するかたわら、なんでも挑戦させてもらった。
せっかくこういったまれな機会をいただいたので、いまいちど仕事を振り返り、フィクションとノンフィクションの編集がどのように異なるのか、言葉にしてみたい。
前回の執筆者である東洋館出版社・河合麻衣さんがものすごい熱量で感想を綴ってくださった(ありがたすぎて震えた)武田砂鉄著『マチズモを削り取れ』は、今年の5月に、作家・金原ひとみさんによる素晴らしい解説をたずさえ文庫になった。2018年に連載が始まり、2021年に書籍になった本作で、わたしは「編集者K」として、章ごとのテーマ提起となる「檄文」を書かせてもらった。路上、電車、学校、オフィス、トイレなど、日本の公共空間にはびこる〈マチズモ=男性優位主義〉の実態について、「編集者K」が個別具体的な違和感を武田さんにぶつけ、それに対して武田さんが取材・調査しながら、変わらないこの国の「体質」をあぶり出そうというのがこの本の趣旨だ。
実名ではなくイニシャル表記とはいえ、個人的な怒りや絶望にもとづく問題提起を誌面上で行うことは、編集者=裏方である自分にとって非常事態だった。文章を書き記す、しかも個人的な感情を自分のものとしてあらわにするのは、想像以上に怖かった。万が一なにかあったら頼れる(はずの)会社組織という後ろ盾があっても、なお怖いと感じた。思考が紙に印刷されるさいに生まれる「責任」の重たさをひしひしと感じ、作家やライターとして個人の文責で原稿を書いていらっしゃるみなさんへの敬意がいっそう深まったのは言うまでもない。
個人的な肌感覚だが、フィクションの編集はノンフィクションの編集よりも、制作に時間のかかる作品が多いように思う。ノンフィクションにも何年も時間をかけて制作される作品はもちろんあるが、比率としては、時代の要請にこたえる、あるいは、現在進行形で深めるべき社会問題に応答する側面が大きく、書き手、編集者ともに瞬発力が問われるジャンルではないか。対してフィクションの編集は、作家に依頼をしてから作家の中で物語世界が構築されるまで、じっくりと「能動的に待つ」時間を要する。即時的な「一筆書き」で、いま実際に起こっていることが記録されるようなフィクションの形態もありえるが、レアケースだ。
『マチズモ〜』は、リアルタイムで起こった社会的事象から問いを立てるという原稿の特性上、連載開始から読者の反応が特別に鮮やかだったように記憶している。2018年当時、フェミニズムの議論がまさに活性化していっている最中だったことも功を奏し、「すばる」が発売されるごとに、SNSでのリアクションや編集部へのメッセージが届いた。すぐさま、応答がある。「そう! いままさに、この問題について考えたかったのだ」と共鳴の声が届く。原稿が、誰かの声と即時的につながっていく、そういう実感を得られるのは、スピード感を持ち合わせたノンフィクションの編集ならではの特性ではないか。
「考えつづけるしかない、怒りつづけるしかない」と連載が締めくくられ、2021年に、帯に「ジェンダーギャップ指数、先進国でぶっちぎりの最下位」と煽りながら書籍化した『マチズモ〜』だったが、今年の文庫化にさいし、「ぶっちぎりの最下位」がまったく覆っていないという事実に呆然とした。フェミニズムの書籍が次々と話題書になり、多種多様な視点からの提言が共有されたはずなのに。変わらない社会に、虚脱感をおぼえた。
人文書は、あらゆる本は、特効薬たりえない。そのことを十分理解したうえでなお、少しでも凝り固まった現状を変えるきっかけが作れていたらと願うのが、編集者のエゴというものだ。一言でも多く残そう、一冊でも多く広めよう、一人でも多く繋がろうとすることこそが、出版・編集の営みなのかもしれない。人文書の編集を経験し、読者の反応のヴィヴィッドさにおののきながら、そのことを意識する機会が増えた。なんのために「本」を出版する――印刷し、流通経路にのせ、書店に並べてもらう――のか。その「なんのため」が、すこし腑に落ちたように思う。「あなたはひとりではない」、そのことを伝えるためなのではないのかと。
じつは、いまでも「『マチズモ〜』のKさんに」と、地方自治体の男女共同参画にまつわるイベントの案内が編集部宛に届くことがある。これは登壇の依頼などといった大ごとではなく、先方からの「こちらも引きつづきがんばっています」というご報告のような、そういう温かな私信のようなご連絡だ。「すばる」では、武田さんの「ルサンチマンをぶち壊せ」という新たな連載が始まり、わたしもKのひとり(今回は複数の編集者で格闘中)として企画に参加させてもらっている。引きつづき、がんばるしかない。しつこくやるしかない。
今年に入って「小説すばる」という小説誌に異動したわたしは、心機一転、エンターテインメントの世界で修行を積むことになった。つまり、現在地としては、人文書編集者からいよいよ遠ざかっていることになる。「ここではない世界」を作る、それがフィクションのおもしろさであり、じっくりと時間をかけて言葉を練ることのおもしろさがそこには確かにある。解きほぐすのがノンフィクションであるとするなら、フィクションは徹底構築。世界をこしらえ、そこに棲む存在をこしらえ、その存在がなにに刺激を受け、いかに反応をするかをこしらえる。虚構の世界に向きあう作家の筆をひたと追いかけながら、その世界の再現の精度をいかに高められるか、問いを深める日々だ。
いつか再び人文書編集に携わることができたら、どんな本を作るだろう。そのころの社会は、どんな本を求めているだろう。気候危機や政治経済の混乱含め、先行きの見えない混迷の時代がつづいていく。思想や思考が分断していくなかで人文書に携わるというのは大いなる挑戦であろうが、カオスのなかでひとつの筋道を立てていくおもしろさもあるだろう。絶望せずにいるための言葉を、果たして見出していけるだろうか。そのときもまた、諦めずに闘いつづけるしかないと、希望の言葉を絞り出すのだろうか。出せるのだろうか。
次にバトンを渡すのは、中央公論新社の石川由美子さん。角田光代さんの『タラント』や松田青子さんの『おばちゃんたちのいるところ』など、文芸編集者として話題作を数多く手がけたのち、ノンフィクションの編集者へと華麗なる転身を遂げた先輩であり、戦友だ。人文書のなかでも、翻訳書をめぐる彼女の仕事にとても注目していて、ぜひそういったことも読ませてもらえたら嬉しい。なにを隠そう、彼女はわたしが就職活動中に話を聞かせてもらった初めての同世代の編集者で、憧れの気持ちは十数年前からなに一つ変わらない。原稿に対する精鋭な視点、本づくりにおける豊かな発想と言葉選びのセンス、ずっとずっと、憧れている。