2025年大河ドラマ「べらぼう」の時代考証者が描く蔦重と江戸中期の文化 ――鈴木俊幸著・平凡社新書『蔦屋重三郎』
記事:平凡社
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商人の評価は、商売が成功を収めたかどうか、つまり、どれだけ営業規模を拡大し、どれだけ資本を集積したかという指標をもってなされるべきであろう。しかし、そういった観点から蔦屋重三郎(1750〜97、※以後、蔦重と記す)の商売を評価することは難しい。個々の事業でどれだけ儲もうけたのかはわからないし、四半世紀にわたる彼の本屋商売全体を収支という面で総括することも不可能である。ただ、吉原に行って破産する者は多くいるけれども、吉原から起業して江戸の大商人になった者はこれまで聞いたことが無いと大田南畝(1749〜1823)が評したように(※南畝が撰文した蔦重の母の墓碑銘に記載あり)、吉原から日本橋に進出して一廉の書店を経営するまでになったという履歴は成功者のそれである。同時代人の評価もそこに比重を置いているのは当然である。
また、その出版物によって版元を評価することはもっともなことであり、わかりやすい評価方法でもある。蔦重は数々の出版物を世に送り出した。狂歌本にして戯作類にしても、それらの多くは時人の歓迎するところとなり、他の追随を許さないほどであった。そして後世においてもその時代を象徴するようなものとして蔦重の出版物は評価されることになる。実際、世界的に評価の高い浮世絵師である喜多川歌麿(1753?〜1806? ※歌麿の生没年は不明のままとされることが多い)や東洲斎写楽(生没年不詳)を見出したというところで蔦重は高く評価されてきた。たしかに歌麿の名品を数多く出版し、写楽にいたっては全点蔦重版である。しかし、それは後代の浮世絵評価に寄りかかりすぎた蔦重評価である。かといって、同時代において評価の高かった北尾重政(1739〜1820)の絵本も多く出版していることをもって彼を顕彰することも同様にしっくりこないのである。
蔦重が商才豊かな商人でそれなりの成功を収めた点、また蔦重の出版物の優れている点は評価しなくてはならないが、蔦重という本屋について注目すべきところは、むしろそれ以外にある。石川雅望(1754〜1830)撰の蔦重墓碑銘は、彼の「巧思妙算」が他の及ぶところではなかったとしている。蔦重は経営においても出版の内容においても結果を出したのであるが、そこに至る「巧思妙算」が蔦重ならではのもので、他の本屋には同様の発想がなかなか見当たらないのである。
その「巧思妙算」とは、第一に時代の「風」を読み、また「風」を作る才能であろう。作った「風」は町の注目を載せて蔦重店に集まる。彼の出版物は「風」を読んで制作されたり、「風」を起こすために制作されたり、また「風」そのものであったり、出版の発想はじつに柔軟である。18世紀末の四半世紀を、「風」を読み、「風」を起こしつつ蔦屋重三郎が駆け抜けた後、われわれには豊かな江戸の宝物が遺されることになったのである。そして、彼のまなざしは、その「風」の及ぶべき遠い先の時空間にも向けられていたものと思われる。
価もそこに比重を置いているのは当然である。
蔦重の書店営業は安永期から寛政期にかけてのことである。たった四半世紀であるが、この間に日本の歴史は大きく動いた。田沼意次(1719〜88)から松平定信(1758〜1829)政権へといった政治上の変化のことを言っているのではない。真の意味で歴史を動かす主体である民間に大きな動きが見られるのである。それぞれは汗を流して日々労働している普通の人びとである。その個々における動きは微々たるものであっても、その総体は歴史を動かす大きな原動力となる。江戸時代中期から後期へと歴史の歩みは大きく舵を切るのであるが、その舵を切る力は民間のものである。蔦重の精度の優れたアンテナは、微々たる動きを捉えて、今後の展開を彼に予見させていったのであろう。彼の足取りをたどっていくと、彼のアンテナに導かれて、当時の時代そのものと、その展開が見えてくるのである。
(構成=平凡社新書編集部)
はじめに
第一章 吉原と蔦重
吉原の本屋重三郎
吉原発の当世本
第二章 天明狂歌・戯作と蔦重
安永から天明へ
地本問屋蔦屋重三郎
季節の終わり
第三章 新たな時代の到来
寛政という時代
書籍市場の変化
全国展開
あとがき