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「宇宙人」との共同作業 危機の時代に立ち上げた「批評空間」:私の謎 柄谷行人回想録⑲

記事:じんぶん堂企画室

浅田彰さん(左)と柄谷さん。スペインのポルトボーに思想家ベンヤミンの墓を訪ねた=1993年、高木崇雄さん撮影
浅田彰さん(左)と柄谷さん。スペインのポルトボーに思想家ベンヤミンの墓を訪ねた=1993年、高木崇雄さん撮影

――1980年代後半から90年代の柄谷さんの活動についてお聞きしていきます。ソ連の崩壊や阪神淡路大震災をはじめ国内外で歴史的な動乱期ですが、柄谷さんの周囲でも雑誌を立ち上げたり、湾岸戦争反対の署名の運動をしたりと、様々な出来事がめまぐるしく起きている時期です。盟友だった作家の中上健次が亡くなったのも92年でした。

柄谷 いまから思うと、それまでやってきたことに始末をつけていった時期でした。一口でいうと、文学から決別する方向に向かったのです。
一方で、この時期は、まったく新しいことを始めたときでもあった。それには時代の変化が大きかったと思う。冷戦構造の崩壊、湾岸戦争勃発などが重なったときに、それを実感しました。それで行動的になった、ともといえますね。

――85年から88年まで「群像」で連載した「探究」では、内省から世俗的な他者との交通へという理論的な転換があったわけですが、現実でも他者と関わっていこうということでしょうか。

柄谷 意図したというより、自然とそうなっただけです。ただ、最近自分の年譜を見ていて気づいたことだけど、この時期は、人生で一番外交的で活発だった。アメリカにもしょっちゅう行っていたし、対談や座談も多かった。

現実にも起きた大きな変化

――お聞きしたいことはたくさんあるのですが、まずは、雑誌「季刊思潮」と「批評空間」についてから。

柄谷 先ほど言った、新しく始めたことの筆頭は、雑誌の編集です。それまでの僕は批評家としてひとりで活動していたし、現実的な事柄にコミットもしていなかった。だから、人と一緒に雑誌を始めるということ自体、大きな変化だったと思うんですよ 。

――1988年6月から発行される「季刊思潮」ですが、演出家の鈴木忠志さん、哲学者の市川浩さんと柄谷さんという3人が編集同人です。建築家の磯崎新さんもアドバイザーでした。鈴木さんに声をかけられたことがきっかけだったんですよね。

柄谷 そうです。僕は、中上健次のように同人誌に入っていたこともなかったし、そもそも他人と一緒に何かすることを嫌っていたんですね。でも、鈴木さんが言うんだったらやってみようか、と。鈴木さんは演劇、市川さんは哲学、磯崎さんは建築が専門でしょう。つまり、文学関係の人がいない。このメンバーで雑誌をやるからには、文芸誌じゃなくて、もっと幅広い批評をやろうと思った。

――「季刊思潮」については、江藤淳や高階秀爾がやっていた「季刊芸術」を意識していたと振り返っていますね。

柄谷 「季刊芸術」は、文学だけじゃなくて、芸術全般の雑誌でもあったから、文芸誌に書けないようなものも書いていい雰囲気があったんですよ。僕の『日本近代文学の起源』のもとになった論文もあそこに載った。当時は江藤さんも、まだ非常に社交的で、僕も家に招かれたりしてました。「季刊芸術」は、価値、感覚が共有される場として存在していた。とはいえ、僕も同じような場をつくりたい、と思ったわけではなくて、流れに乗ってやっているうちに、だんだんそういう方向にいっただけなんですけどね 。
戦前に小林秀雄がやっていた頃の「文学界」も、念頭にありましたね。マルクス主義者で他の雑誌では書く場もなくなったような人を受け入れていた。あれは、小林秀雄の社交空間だったといえます。僕も、それと似たようなことをやったのではないか。といっても、すぐにそれができたわけではない。「季刊思潮」が僕の考えていたような場になっていったのは、そこに、ある人物が加わったからなんです。

――それはやはり……。

柄谷 浅田彰です。

「宇宙人」だった浅田彰

浅田彰さん=1994年
浅田彰さん=1994年

――浅田さんは、89年1月の「季刊思潮」の3号から加わりますね。

柄谷 座談会に出てもらった後に、実情を訴えて、編集同人に加わってくれないかと頼んだところ、快く引き受けてくれた。それで僕は一気に楽になったし、雑誌の内容も見違えるように充実した。僕は、原稿を書いたり、 “共同討議”と呼んでいた座談会に出たりしていたけど、編集はほとんど浅田君に頼り切りでした。他の人の原稿は発売後の雑誌で読むことも多かったくらいで(笑)。

――やはり編集者としても一流ですか。

柄谷 浅田君の能力はすさまじいよ。まず、欧米での思想の動向をよく把握している。他方で、翻訳までチェックしていたし。とんでもない仕事量だったと思う。それなのに、楽々、平然とこなしてしまうんだ。それだけじゃなくて、座談会なんかでも、僕がその場で言ったことをそつなくまとめてくれるから、安心していられた。座談会のゲストについて前もって教えてくれたり、座談中にさりげなく橋渡しをしてくれたり。僕がやっていることについて、浅田君がまとめてくれると、なるほどそうだったのか、と自分で自分のことがわかることもよくあった。

――「最高のパートナーであった」と振り返っていますね。「漫才でいえば、私はボケで、彼はツッコミ」とも(「浅田彰と私」『柄谷行人浅田彰全対話』)。このあたりは、やはり関西人同士の呼吸もあるんでしょうか。

柄谷 関西人とかなんとかいう以前に、彼は普通の人ではない。人間育ちだけど、ほんとは宇宙人(笑)。彼に比べると、僕は普通人だと思うね。彼は、哲学や思想はもちろん、音楽や芸術、国内政治から世界情勢にまで精通していたし、英語・フランス語の能力もずば抜けていた。外国の出版物なんかにもさらりと目を通してしてしまうから、日本のメディアを通じて把握する人たちとは違っていた。しかし、そのことをひけらかすようなところは全くなくて、むしろ抑えているんだけど、隠せない。出会った頃から落ち着き払っていて、かつユーモラスだった。浅田君がいたから僕の90年代の活動がありえたようなものです。
その一方で、90年代は、僕あっての浅田君でありえたともいえます。彼に出来ることは僕には出来ないし、僕に出来ることは彼には出来ない。たとえば、彼は、自分で書いたり、オリジナルな理論を作ることには関心がないんじゃないかな。そのような野心がないんだ。そもそも、“私”というものが希薄。無私の人、といったらいいのかな。不思議な人です。

――浅田さんといえば、83年に26歳にして『構造と力』がベストセラーになるわけですが、その以前から面識があったんですよね。

柄谷 知り合ったのは、京都大学の経済学部で集中講義を頼まれたときですね。82年だったと思う。誰が呼んだのかよくわからなかったんだけど、行ってみたら、裏で糸を引いているのが浅田君らしかった。助手なのに、教授が彼の助言を仰いでいた(笑)。

――出会った当時のエッセーで、「驚嘆すべき俊才」「私は教えるどころか、私が何を実際に考えていたのかを逆に教えてもらったようなものである」と絶賛しています(「京都で考えたこと」『批評とポストモダン』所収)。

柄谷 みんな会ったら仰天する。外国に行っても、そこの人たちから、「こんな人は日本でも唯一無二でしょう」と聞かれるんだよね。また、僕にも感嘆して、日本人ってこんなに知的なのか、と驚いているわけ。それに対して、僕は「僕たち程度の人は、日本にはざらにいますよ」と答えていた。

――いや、柄谷さんも浅田さんもかなり特別だと思いますけど……。

柄谷 そうなんだけど、日本人を立派に見せよう、という心で(笑)。当時これをゴキブリ理論と呼んでいた。一匹いたら、背後にうようよいる、というものです(笑)。
僕が外国でよく講演するようになったのも、浅田君に出会ってからだね。語学力と機転で助けてもらえるから、一緒だと楽なんだ。

危機の時代の雑誌「批評空間」

批評空間のバックナンバーに目を通す柄谷さん
批評空間のバックナンバーに目を通す柄谷さん

――「季刊思潮」は90年4月に8号で終わり、1年後に同じく季刊で「批評空間」がスタートします。二つの雑誌は地続きと考えていいのでしょうか。

柄谷 そうです。「季刊思潮」は、いいかげんに始めた雑誌だったけど、浅田君が加わって見通しが立ってきた。それで僕もだんだんやる気が出てきて、最後のほうはかなり一生懸命やりました。それで、浅田君と二人でもっと本格的にやろうとしたのが、「批評空間」。編集顧問のような形で、鈴木さんや市川さん、磯崎さんにも残ってもらった。

――「アドバイザリーボード」という形で名前が入っていますね。同様に、エドワード・サイード、フレドリック・ジェームソン、マサオ・ミヨシといったアメリカの一流の学者も名を連ねています。創刊号には、ジェームソンの他、ポール・ド・マンやスラヴォイ・ジジェクの論考も載っていますね。

柄谷 外国にも通用するものを、という意識はありましたね。同時に、日本人の論文にも、ここに載ったら外国人の目に触れるんだという緊張感を持たせたかった。英語版を出す計画もすすんでいたし。結局実現されませんでしたけど。

――雑誌名の「批評空間」は英語だと、「critical space」。浅田さんは、創刊号の編集後記で、“critical”に批評的という意味以外にも、“危機的な”という意味も込めたと書いています。

柄谷 89年に冷戦構造が崩壊し、創刊の直前には、湾岸戦争も始まった。世の中はまだバブルの雰囲気だったけれども、まさに危機の時代に突入したという切迫感がありました。

《「批評空間」は、福武書店発行の第1期(91年4月~94年1月)、太田書店発行の第2期(94年4月~2000年4月)、批評空間社発行の第3期(01年10月~02年7月)と続いた》

ニューアカの記憶

――少し脱線しますが、83年の浅田さんの『構造と力』、それから中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』などで、ニューアカデミズム、いわゆるニューアカブームが起きますね。柄谷さんもいわば“教祖”の一人として渦中にいたわけですが。

柄谷 久々にニューアカという言葉を聞いて、それって何だっけ、とにわかには思い出せなかったくらいなんだけど(笑)。

――柄谷さんは84年に、「批評とポストモダン」を「海燕」で発表しますが、ニューアカブームへの反発が執筆の動機の一つだったようですね。文庫版のあとがきには、「1984年は、いわゆる「ニューアカデミズム」の全盛期だった。こういうこともすぐに忘れられるから記しておく」とあります。

柄谷 書いた本人が忘れたんじゃ、しょうがないね。

――私のような後続の世代にとっては、いわゆる現代思想がそれだけの人気を持ったのは、不思議な現象です。

柄谷 あの頃は、日本だけじゃなくて、知識人に妙な人気が出た時期だったのかもしれない。コロンビア大学でもサイードの教室なんかは、女性ファンでいっぱいだった記憶がある。

――柄谷さんも国外の講演で聴衆が多く集まったそうですね。アメリカやフランス、韓国などでは研究者も含めて女性のファンも結構多かったとか。

柄谷 そういう時代もあったらしい(笑)。驚いたけどね。

――知識人が一種のスターだったんでしょうね。

柄谷 思えば、この時代の知識人の人気というのは、サルトルに始まるんじゃないかな。彼が、それまで別々の領域だった文学と哲学と政治を一つのものにした。それで知的なものが、多くの人にとって斬新かつ身近なものに感じられるようになった。その伝統がこの頃の文芸評論にまでつながっていた、ということだと思う。ドゥルーズやデリダ、ジェイムソンもサイードも、その系譜にあるし、僕もそうです。だけど、20世紀の終わりに、その系譜は途絶えたような気がする。

――柄谷さんは法政大学で教えていて、学生の反応はどうでしたか? ニューアカブームで急に人が増えた、とか。

柄谷 僕の場合は基本的に語学教師でしたからね。ただ、一科目だけ、自分がその時々に考えていることを話すゼミをやってたんですけど、それはいつも満員でした。しかも、ほとんどが学外からの聴講生。高校生もいた。だから、文壇のような狭い世界だけでではなくて、一般の人にも読まれているという実感はあった。

――75年にアメリカに行く前からですか?

柄谷 その前から聴講生は結構いたけど、帰って来てから増えたね。そういえば、90年代はじめに聴講に来ていた、際立って優秀な20歳くらいの青年がいました。彼は、デリダがどうだとか、哲学的なことでいつも思いつめていた。顔を見ると、挨拶もなしにいきなり理論的な話で詰め寄ってくるんだ(笑)。それが東浩紀君だよ。

――おお。学部生時代に、柄谷さんに「ソルジェニーツィン試論」を渡し、それが「批評空間」に掲載されてデビューしたというのは、ある種の伝説です。

柄谷 これは面白いと思って。浅田君も同じ意見だった。

自分の位置を確認する座談会

――東さんが大きな注目を浴びたデリダ論『存在論的、郵便的』も「批評空間」に連載されました。東さんの出発点という意味でも、「批評空間」は重要ですね。岩井克人さんの『貨幣論』など、連載をもとにした本も多数あります。知識人が集まる場所ということで言えば、「季刊思潮」と「批評空間」の大きな特徴の一つが“共同討議”と銘打たれた座談会でした。この座談会は、読者が一番楽しみにしていたものだったと聞いています。

柄谷 座談会のテーマは、最初は編集部で決めていたんだけど、だんだん掲載された論文から決まるようになった。さらに、座談会を受けて新しい原稿が集まるようにもなった。一方通行のメディアじゃなかった、ということだね。
僕は原稿を書かないときでも、年4回の座談会には必ず出ていました。当時はアメリカと行ったり来たりしていたから、日本にいるときにまとめ録りすることもあった。だけど、座談は僕には楽だったんです。たいした準備をしなくても、その場でこなせた。今では考えられないことです(笑)。

国際会議で訪れたバルセロナでの柄谷さん=高木崇雄さん撮影
国際会議で訪れたバルセロナでの柄谷さん=高木崇雄さん撮影

――なかでも、「季刊思潮」6号(89年)から「批評空間」3号(91年)にかけて掲載された「近代日本の批評」は、3冊の本にまとめられました。「昭和篇」は、柄谷さん、浅田さん、蓮實重彦さん、三浦雅士さん。「明治・大正篇」では、野口武彦さんが加わります。批評史をたどる座談会ですが、これ自体が後続の世代にもしばしば参照されていて、批評史の一部になっているような本です。この企画のいきさつについては覚えていらっしゃいますか。

柄谷 うーん、どうだったかな……。

――「序」などに書かれていることによると、アメリカに行ったことに端を発するようです。海外で、日本の小説は読まれても、批評は翻訳もされていなかった。日本人には、美的なものは期待されても、認識的・政治的なこととは期待されていなかった。そういう日本受容に不満があったこと、それから自分の仕事がどういう歴史的な背景から出てきたのかを知ってもらう必要もあった、と。それで、ポール・アンドラ(日本文学研究者、コロンビア大教授)と、日本の批評を翻訳して海外に紹介するアンソロジーのプロジェクトを考えた 、とのことでした。エキゾチックな日本受容に対抗した『日本近代文学の起源』と通じるものを感じます。(第13回参照)

柄谷 なるほどね。ここで考えていた批評というのは、文学批評だけじゃなくて、哲学も含む日本の知性の精髄のようなものだった、ということだね。

――この時期は本当にいろいろなことがあるのですが、もう一度90年前後まで時間を巻き戻してお聞きします。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、冷戦構造の終結、中上健次と湾岸戦争についてなど。月1回更新予定)

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