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情動という問題系

記事:春秋社

川村覚文 著『情動、メディア、政治――不確実性の時代のカルチュラル・スタディーズ』(春秋社)
川村覚文 著『情動、メディア、政治――不確実性の時代のカルチュラル・スタディーズ』(春秋社)

 意識するよりも先に体が反応してしまい、それと同時になんだか気持ちも昂っていて、いてもたってもいられない、という経験をしたことはないだろうか。それこそ、情動だ。

 こういった情動的経験は、それが強ければ強いほど、たとえば理屈や理性といった、いわゆる「頭ではわかっていること」によるコントロールが効かないものとなる。そのため、強い情動によって駆動された個人は、はたから見ると、なんでそんなことをしてしまうのか?(あるいは、言ってしまうのか?)といった行動をとってしまいかねない。

 ネット上での炎上や罵り合いは、それこそメッセージや画像、あるいは動画などを見ることで強い衝撃を受け、体が反応するままに、それぞれの個人が行為をした結果生じた現象であり、その意味で情動的なものであるといえるだろう。

 あるいはプラットフォームを通じてデータが収集・分析され、その分析に沿ってそれぞれの個人がその関心や注意を惹きつけられるものが提示され、その提示に対して体が反応するままに、深く考えることなく私たちはクリックもしくはタップしてしまう。これはアテンション・エコノミーにおけるマイクロターゲティングとして日常化しているが、これもまた情動的な反応の一つであるといえるだろう。

 しかし、情動によって駆動された個人に対して、たとえば「反知性的」であると指摘し、それを克服すべく理性的であれ、とお説教(あるいは啓蒙?)することが本当に正しいのだろうか。

 そもそも、このような態度には、情動を感情と混同した上で、知性や理性と対立し、しかもそれらよりも低いものとみなす認識が潜んでいる。

 しかし実際には情動は、感情はおろか、理性や知性にさえも先立ち、それらの成立を可能にしているものだ。いいかえれば、理性や知性、感情を持つ「個人」の生成を可能にしているものこそが、情動なのである。

 だから、情動を克服すべく、理性や知性を鍛えよ、というのは少し方向性としてずれているといえる。むしろ重要なことは、どのような情動を背景にして、感情や知性、あるいは理性的思考が生み出されることが可能なのか、ということを考えることであるといえよう。

 このような情動に注目する議論は、1990年代中頃から情動論的転回(the affective turn)として徐々に台頭しはじめ、日本での文化理論や社会理論への本格的な導入は、伊藤守氏の諸著書(『情動の社会学』青土社、ほか)などを皮切りに、近年盛んに進められてきている。

 本書がその中にあって屋上屋を架すものとなっていないことを願うばかりだが、あえてその特徴を挙げるとすれば、以下の3点であるといえるのではないだろうか。

 すなわち、①情動をめぐる政治・権力理論の紹介、②情動(理論)とポスト/ノンヒューマンと呼ばれる動向との関係性への着目、③メディア文化(とりわけアニメとそのファン=オタク)における情動の問題についての分析、である。

情動と政治・権力の問題

 情動が権力や政治の問題と関係するということは、割と想像がつきやすいのではないだろうか。

 近年では、たとえばアメリカの大統領選挙をめぐって人々の間に分断が生じ、その背景にはネットによって煽られた感情的な対立が存在する、といった主張をよく目にするだろう。

 あるいは、中国やロシアなどが、敵対国(あるいは敵対勢力)の世論を誘導すべく、SNSなどを通じた「認知戦」を行なっている、などといった報道も目にしたりするだろう。

 もしくは、ネット掲示板での扇情的な言葉を通じてつながり合っている、ネット右翼(ネトウヨ)と呼ばれる人たちの問題も注目されてきた。

 さらには、もっと古典的な事例をいえば、ネットがそれほど普及していない時代においてすら、ナショナリズムやポピュリズムによる人々の熱狂といった問題は存在する。

 これらの問題は、情動の触発によって人々が動かされ、その結果なんらかの政治的影響を与えるような勢力が産み出された事態として、理解できるだろう。

 しかも、情動の触発を通じて特定の政治的方向性へと誘導が可能であるならば、誘導されている人々は、自分たちは「イデオロギー」と関係なく行動しているのだ、と自認することになるだろう。それは、今日のような「イデオロギー」が(それがあからさまに権力や政治を想起させるものとして)敬遠される時代にあって、より巧妙な権力的効果を発揮するものとなるだろう。

 しかし、このようなネガティブな側面においてのみ、情動と政治や権力の関係は捉えられると考えるのは早計だ。なぜなら、すでに述べたように、情動は我々の思考を刺激し、常に新しい思考を創発させる源泉となるものだからだ。

 情動の触発は、これまで私たちが思いつくことのなかった政治の可能性や未来への想像を、興奮と共に掻き立て、それへと向かう理路の構想へとつながっていく可能性があるのだ(たとえば本書で取り上げたように、左派加速主義におけるハイパースティションの問題として、ニック・スルネックは情動に着目しているし、ウィリアム・コノリーもまた、神経政治学という名の下に情動的な触発による新しい思考の創発に注目している)。

 さらに、情動はそれをもとに、さまざまな思想・信条・感情を超えた連帯を生み出す可能性を持っている。情動は、そこからさまざまな思想や感情が生じるポテンシャル、つまり「潜在性」であるのだとすれば、違う思想や感情を保持しつつも、同じ情動を共有する人々の集合性が構成されることは、十分に可能なはずなのだ(本書で参照したことをもとにいえば、ジェレミー・ギルバートがその例としてイギリスでの反道路建設運動を挙げている)。

 このように、情動と政治や権力の関係性は、よりポジティブなものとして捉えることもできるというわけなのである。

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