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情動とポスト/ノンヒューマン

記事:春秋社

情動の触発のよる個体の生成は過飽和溶液中に結晶が産み出されるモデルで議論されている。(画像はイメージ)
情動の触発のよる個体の生成は過飽和溶液中に結晶が産み出されるモデルで議論されている。(画像はイメージ)

 情動が、ポスト/ノンヒューマンとよばれる思想動向と関係するというのは、少々理解しづらいかもしれない。

 なぜなら、近年の思想的なトレンドとして注目されているポスト/ノンヒューマンの思想は、人間と非人間、それも非生物的存在も含めて、それらを等価な存在としてみなす、というものであるからだ。それは、いわゆるモノと呼ばれている存在を、人間と同じ存在価値のあるものとして扱おう、というものだ。

 しかし、情動という高度な神経組織を持っている生命体でなければ見られないような原理が、モノにも見出されるということを主張するのは、いかにも無理筋のように聞こえるだろう。そうなれば、なぜ情動論がポスト/ノンヒューマンの潮流に棹さすのか、ということは理解不能になってしまうだろう。

 しかし、それにもかかわらず、例えば北米のメディア研究者のリチャード・グルーシンは、アクターネットワーク・セオリーや新唯物論(ニューマテリアリズム)、思弁的実在論などとともに、情動理論(affective theory)をノンヒューマンの思想潮流の一つとして数えたりしている。これはどういうことなのだろうか。

 理由のひとつは、個人という人間存在の基盤となるものの生成に情動が関わり、しかもその情動はモノの存在によって触発されるからであるというものだ。

 私たちの思考や感情といった自己意識が、情動が触発されることで産み出されるのだとすれば、そのような情動を触発するものがなければ、そもそも自己意識を持つことすら叶わない、ということになるだろう。そして、そのような情動を触発するものには、さまざまなモノの存在も含まれているはずである。だとすれば、そのようなモノの存在抜きに人間存在を論じるわけにはいかない、というわけである。

 そして、もうひとつは、そのような個人(あるいは個体)の生成において情動が関わるという現象は、人間に限らずあらゆる存在において見られるものである、というより根源的な議論の存在である。

 イギリスの文化理論研究者であるジェレミー・ギルバートによれば、このような情動の触発による個体の生成は、フランスの哲学者のジルベール・シモンドンによって、過飽和溶液における結晶化をモデルとして議論されているという。過飽和溶液は非常に不安定な状態(準安定状態)にあり、そこに衝撃を加えると溶液中に結晶が産み出される。つまり、情動の触発を通じた個人=個体化とは、このような衝撃を契機とした結晶化として理解できる、というわけなのだ。

 このように、モノとモノ、人間と人間、モノと人間、それぞれの関係性によって情動が触発され、次々と個人=個体が生成していく、というのが情動論によって描かれていく世界なのである。

情動とメディア文化

 情動がメディア文化と関係する、ということもなんとなく想像がつくのではないだろうか。最近では「推し」や「推し活」という言葉が注目されているように、自身の身体がそれによって触発され、生きるエネルギーが充填されるような存在を、「推す」ということがより一般的なこととして語られるようになってきている。

 このような「推し」の存在こそは、私たちの情動を触発するものであると考えることができるだろう(そもそも、情動(アフェクト)論の元祖としてしばしば参照される哲学者スピノザは、存在そのものとしての力である「コナトゥス」の変容をめぐって、「アフェクトゥス」を論じていたのであった)。

 メディア文化を、こういった「推し」の存在によって情動が触発されるという事態が生じる領域の、代表的なものとして理解することはそれほど困難なことではないだろう。

 そして本書でも、こういった「推し」の対象となりうるような、メディア文化上の存在、とりわけアニメにおけるキャラクターとその声優が、そのファン(オタク)の情動をどのように触発するのかということに注目し、議論している。

 声優がアニメのキャラクターになりきり、ライブコンサートを上演するということが、近年大きな盛り上がりを見せている。代表的なものとしては、『ラブライブ!』や『ウマ娘』のライブコンサートが挙げられるが、そこでの体験はどのようなリアリティを持っているのであろうか。生身の声優と、いわゆる二次元のキャラは当然異なるものだが、それらを同一の存在として認識し、声優によるパフォーマンスをキャラ自身がパフォーマンスしていると経験するような境地とは、一体どういったものなのか。

 こういった問いに対し、そのような経験を可能にしているものこそが、情動であるというのが本書の分析である。

 また、アニメを見るという経験それ自体においても、視聴者の情動は触発される。アニメのキャラクターは、情動を触発するプラットフォームであるといっても良いだろう。そして、そのようなアニメの視聴における情動的な経験は、どういった問題や可能性をはらむのだろうか。

 本書では特に、日本の近代史との関係において微妙な緊張をもたらすであろうタイトル群(『艦隊これくしょん』、『蒼き鋼のアルペジオ』、『ハイスクール・フリート』)を対象にし、それらを通じてどのような情動の触発がなされうるのか、分析を行なっている。そこには、危うさと可能性の双方が潜在している、ということを考察している。

 以上、2回に分けて本書の三つの特徴について紹介してきた。これらは、当然ではあるが、それぞれ相互に連関し合う問題でもある。本書が、その連関の理解に少しでも貢献できれば嬉しく思う。

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