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災いを生き延びた人々へ、敬意をもって関わり、不条理な悲苦をともに受け止め直す社会をつくるために――。

記事:朝倉書店

災いは人を人生と社会から引きちぎる。その現場に臨むことは、居心地の悪さに身を置きながら、もがく命に耳をそばだて、ちぎられたものをつなぎとめ直す試みなのだろう。それは社会の「品格」をめぐる問いである。つまり災いを生き延びた人々へ敬意をもって関わり、不条理な悲苦をともに受け止め直す社会をどうつくってゆくかという問いを実践することである。
災いは人を人生と社会から引きちぎる。その現場に臨むことは、居心地の悪さに身を置きながら、もがく命に耳をそばだて、ちぎられたものをつなぎとめ直す試みなのだろう。それは社会の「品格」をめぐる問いである。つまり災いを生き延びた人々へ敬意をもって関わり、不条理な悲苦をともに受け止め直す社会をどうつくってゆくかという問いを実践することである。

『心のケア』

災害と「ケア」

 扱いが難しい用語である。被災地で警戒される語の一つだろう。大切な言葉だ。けれどもざわっとした居心地の悪さも感じる。さしあたり定義すれば「トラウマティックな被災体験に起因する心身症状の精神医学的治療・心理学的援助を中核とした、被災者の心理的問題全般の解消・緩和を目的とする支援活動の総称」になろう。過酷な災害現場で働く救援者の「惨事ストレス」への対処や、肉親を喪った人の悲嘆を支える「グリーフケア」1)、避難所等での性暴力被害者への支援も含めてよいかもしれない。一般の認知度は低いが、災害精神医療では平時からの地域精神医療・地域保健システムの再建も重要である2)。

 自然災害に巻き込まれた人々はしばしば生命の危機を間近に感じ、ときに近親者や友人を喪う。住み慣れたまちが災いに突然飲み込まれ、自分が生き残ったことや財産や生きがいを奪われたこと、そうでなかった人々もいることに根本的な必然性を見出し難い。さらに、そうした辛い体験を受け止める土台として機能するはずの生活環境やコミュニティまでもが瓦解する。こうした出来事を「こころ」が受け止めきれずに生じる、恐怖などの情動を鮮烈に帯びたまま過去のものにならない記憶を心的外傷(psychologicaltrauma)と呼ぶ。それに起因した悪夢・フラッシュバック・回避症状・サバイバーズギルト・過覚醒等の症状について心的外傷後ストレス障害(post-traumaticstress disorder:PTSD)の診断基準がある。「心のケア」の原点は、人間が災害で傷つきうる存在であることへの私たちの感受性にある。

 とはいえ被災地で生じる悲苦はこうした教科書的な心的外傷だけではないし、その「ケア」も多様でありうる。被災者は生活や共同体の再建過程と並行して、身体的・心理的な回復過程を歩むことになる。すると「こころ」そのものをケアの対象と考えるか、それともコミュニティや被災者自身の回復力に依拠し、彼らの回復過程をケアするのか、という点をまず区別する必要があるだろう。米国における発災直後用の心理的支援マニュアルでは、「当面の安全を確かなものにし、被災者が心身を休められるようにする」「被災者がいま必要としていること、困っていることを把握する」「家族・友人など身近にいて支えてくれる人や、地域の援助機関との関わりを促進し、その関係が長続きするよう援助する」といった、被災者の回復力を高める常識的な方策をまず挙げている3)。

 では被災者の回復に資する活動や事業はすべて「心のケア」だと考えるべきだろうか。ケアという言葉には、人間が他者と直に接し、時間をともにしながら、その人の主体性を尊重しつつ現実に必要なことをそっと的確に補ってゆくという意味合いが込められているように思われる。その具体的な形は、そのつどのケアの現場で初めて現れる。それは手や眼差しの繊細な所作として、あるいは物資や情報の提供として、あるいは沈黙の共有として現れるのかもしれない。こうした「現場」に身を置くことがケアの前提であるはずだ。

「心のケア」と社会

 「心のケア」という用語が広く使われ始めたのは阪神・淡路大震災からである。自然発生的に急増したため明確な定義はなく、被災者の心理的問題に関わる活動全般を包括する語として定着した。精神科医や臨床心理士のような専門家も、初めて被災地に来たボランティアも担い手となりえた。だからトラウマ治療も被災者電話相談も足湯ボランティアも、保健師の避難所巡回もスクールカウンセラーの増配も「心のケア」と呼べるし、そうした実践それぞれは大切なものだ。他方で現在そうした活動が「心のケア」の看板を掲げることは稀であるし、「被災者には心のケアをどしどし実施しよう」という言説には忌避感が生じている。けれども死語でもない。

 この用語の扱いが難しいのは、被災者に対する多様なケアの実践を指すものであると同時に、災害に遭った人間の傷つき・回復・尊厳・共感をめぐる社会的な意識が編み込まれたものでもあるからだ。傷ついている誰かがいるはずだ、手が差し伸べられるべきだという切迫感。他者の「こころ」に手を差し入れてまさぐるような語感への戸惑い。専門家やボランティアによって適切な「ケア」がなされるのだからみんな立ち直るのだろうという「回復の物語」4)への期待。被災者のことを知りたい、想いを寄せたいという感情と、報道や身体的な知覚を通じて流れ込む圧倒的な現実から距離をとろうとする心理。私は独りなのかという声にならない呻きと、「被災者」と決めつけてくれるなという反発、そうした感情の推測と遠慮。災害と被傷をめぐるこのような意識が、被災者の「こころ」のありようを語り口として表出し、1990 年代以降の被災者支援を促しつつ束縛してきた。また、現場で重ねられた経験はケアに関する言説を絶えず問い返してきた。この絡まりの解き難さが、この語の居心地の悪さの底にある。

 災いは人を人生と社会から引きちぎる。その現場に臨むことは、居心地の悪さに身を置きながら、もがく命に耳をそばだて、ちぎられたものをつなぎとめ直す試みなのだろう。それは社会の「品格」をめぐる問いである5)。つまり災いを生き延びた人々へ敬意をもって関わり、不条理な悲苦をともに受け止め直す社会をどうつくってゆくかという問いを実践することである。   
〔高原耕平〕

『災害復興学事典』朝倉書店
『災害復興学事典』朝倉書店

文献
1)高木慶子(2007),喪失体験と悲嘆:阪神淡路大震災で子どもと死別した34 人の母親の言葉,医学書院.
2)加藤寛・最相葉月(2011),心のケア:阪神・淡路大震災から東北へ,講談社.
3)アメリカ国立子どもトラウマティックストレスネットワーク・アメリカ国立PTSD センター著,兵庫県こころのケアセンター訳(2011),災害時のこころのケア:サイコロジカル・ファーストエイド 実施の手引き(原書第2 版),医学書院.
4)アーサー・W. フランク著,鈴木智之訳(2002),傷ついた物語の語り手:身体・病い・倫理,ゆみる出版.
5)安克昌(2019),新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア,作品社.

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