ハン・ガンにとって短編小説とは? 『回復する人間』訳者あとがきより
記事:白水社
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2016年に『菜食主義者』によってアジア人初のマン・ブッカー国際賞を受賞したハン・ガン。2018年にも『すべての、白いものたちの』(原題『白い』)で同賞の最終候補に残り、今や世界舞台に堂々たる位置を占めたことは間違いない。ハン・ガンは1970年生まれ、20代前半でデビューして以来韓国内の主要な文学賞を多数受賞し、真摯な作風と、強靭さと繊細さを併せ持つ清冽な文体で高い評価を得てきた。日本でも今までにエッセイ集を含め5冊が翻訳出版されており、韓国文学といえば真っ先に名前が挙がる作家だ。
これまでに日本語訳された小説はすべて長編だが、ハン・ガンはデビュー以来、3冊の短編集を出している。『麗水(ヨス)の愛』(1995年)、『私の女の果実』(2000年)、そして本書『回復する人間』(原題『黄色い模様の永遠』2012年)だ。韓国では2018年、これら3冊の短編集が同時に改訂され、装丁を一新して再刊の運びとなった。改訂にあたって作品の並び順が変更され、文章への若干の改変が行われた。本書はこの改訂版を底本としている。
表題について補足すると、本書の原題は最後に収められた短編「火とかげ」の原題にあたる「黄色い模様の永遠」である。しかし著者が、初版刊行時に「回復する人間」を総タイトルにしたい気持ちがあったと語っていることや、本書全体のテーマをずばり言い表していることなどから、日本語版タイトルは『回復する人間』とした。
本書に収められた作品は2003年から12年、著者が30代前半から40代前半という脂の乗った時期に発表されたものである。その間には、日本語で読めるものとしては長編小説『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)、『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)、エッセイ集『そっと 静かに』(古川綾子訳、クオン)が書かれており、またその後の光州事件を題材とした力作『少年が来る』(井手俊作訳、クオン)や『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)につながっていく重要な時期でもある。
著者は、「短編小説には、私が人生に対して持っている感覚といったものが長編小説に比べて多く現れていると思う」と語ったことがある。また、「私という人間がときにはよちよち歩きで、ときにはひるまずに強く、ときには闇の中をようやく手探りで歩いて生きてきた記録」とも。本書の説明は著者のこの言葉だけでも十分なのだが、以下、それぞれの作品について一言ずつ述べておく。
大切な人の死を乗り越えて生きようとする冴え冴えとした意思が沁みてくる一編。母親にとって一人息子である弟を死なせてしまったと苦しむ「ウニ姉さん」への、「そんなふうに生きないで」という呼びかけが、早くも本書のクライマックスの1つを形作っている。なお、韓国では友人関係においても年齢の差が重要なので、年下の主人公は相手を「姉さん」と呼ぶ。「ウニ姉さん」はどこまでも「姉さん」であって、決して「ウニさん」ではない。韓国人らしい絆のあり方が現れた呼称である。
和解できないまま姉と死に別れた女性が主人公。ひりひりするような回顧に苦しむうちに、彼女の足の傷も心も徐々に回復へと近づくが、彼女自身はたやすく回復することを拒む。土の上に横たわった主人公が祈りの言葉をつぶやく最後のシーンは、つきつめた痛みの先にある力を感じさせる。
この作品については、著者自身が「回復ということについて考えてみた作品」と語っている。著者も足首に火傷をしたことがあるそうで、何か月もその部位に感覚がなかったが、初めてそこが痛んだときに医師に「これで治ったのですよ」と言われ、「ああ、回復ってこういうことなんだ」と実感したという。痛みがあってこそ回復がある。これこそが、本書を貫く大きなテーマである。
性的指向を隠して生きてきた主人公「僕」と、不幸な結婚の傷を音楽によって乗り越えてきた「イナ」の、かけがえのない愛情と友情の物語。主人公とイナがソウルの夜の繁華街を散歩する場面の描写は本書の中でも一、二を争う切実な抒情をたたえている。ハン・ガンが世界で愛される理由には、生と死、人間と暴力といった真摯なテーマを描きつづけている点と並んで、ここに見るような巧みな描写力がきわめて高いポピュラリティを備えている点もあるのではないだろうか。
なお、ハン・ガンの作品の中でクィアな物語は多くはないが、「麗水の愛」(未邦訳)など、強烈な読後感を残すものが目につく。また、イナが歌い手として運動に参加していくシーンは、2009年に起きたサンヨン自動車の大量解雇事件や、同年に起きた、ソウル市での再開発をめぐる対立から住民と警察官合わせて6人が死亡した龍山(ヨンサン)事件を念頭においているとのこと。82ページのイナの歌に出てくる人々は長期ストライキに入った男性たちであり、歌詞の内容は、生存と尊厳をかけて戦う彼らとの出会いがそれまでのイナに一種の内的な死をもたらしたことを意味するのだろう。「僕」はイナのそんな変化を完全に受け入れることができず、やがて来る別れを予想している。
主人公は家計をほぼ1人で背負い、育児の悩みを夫と共有することもできない母親。気を抜いたら転がり落ちてしまいそうな日常の断崖を1人で歩いている。そんな彼女の孤独がひとり歩きして、夜な夜な「フンザ」という、実在するが行けない土地を夢見る。彼女にとってフンザとは、人間を含めた他者の生命との一瞬の邂逅に永遠を見ること、そのものなのだろう。そこがテロ多発地帯を越えなくては行けない地域であることが、さまざまな形の暴力について考え抜いてきたハン・ガンのハン・ガンたる所以でもある。
ハン・ガンの死生観がよく現れた作品。この物語は後にさらに展開されて、長編『風が吹く、行け』(2010年・未邦訳)となった。「叔父さん」と「私」の恋愛関係を縦糸に、姪である同級生と「私」とのシスターフッドを横糸にしたミステリー仕立ての力作である。
銀行員として働き妻子を持つ男性、つまり世の中のきわめてスタンダードな男性を主人公とする、本書の中では特異な作品。他の作品の主人公である女性たちが独り身だったり、夫とうまくいっていなかったり、離婚を経験したりして孤独を抱えながら奮闘する一方で、「左手」の男性主人公が、妻も仕事も手放さないと誓いながら自滅していく様子は絶妙な対比をなしている。この短編は本書の中で、結末に希望が見当たらない唯一の物語だが、左手が使えなくなるというモチーフが、最後の「火とかげ」につながっていく。
本書の中で最も初期に書かれ、原書のタイトルとなった作品である。原題「노랑무늬영원」の本来の意味は「黄色い模様の蠑蚖(ヨンウォン)」で、俗に言う「火とかげ」の韓国語の名称だが、「蠑蚖」が「永遠(ヨンウォン)」の同音異義語であるために高い効果を上げている。しかし日本語ではこの同音異義語を活かすことが難しく、それもあって本書のタイトルは『回復する人間』とした。ちなみに、「火とかげ」とはいっても爬虫類ではなく両生類でイモリなどの仲間、日本ではファイアーサラマンダーと呼ばれる。
これを執筆したころ、著者自身も手の指や手首が痛くてパソコンのキーが打てず、ようやく完成させた肉筆原稿をアルバイトの人に入力してもらう方法で書いていたという。しかもそのころ子どもがまだ幼かったというから、大変な困難の時期だっただろう。主人公はくり返し「自分には絵しかない」と語っているが、それを「文」に置き換えれば当時の著者の心情がイメージできるかもしれない。
なお、作中では在日韓国人女性の作品となっているが、実際に本作執筆においてハン・ガンにインスピレーションを与えた絵は、日本で活躍した男性画家郭仁植(クァク・インシク)の、光の粒のような点々を重ねる技法によって和紙に描かれた作品であり、初版時の装丁にも用いられた。
発表時期が十年にわたるにもかかわらず、本書に集められた短編は驚くほどテーマがそろっている。文芸評論家シン・ヒョンチョルの言葉を借りれば「この本の関心事は、ほかの読み方をすることが困難なほどはっきりしている。それは〈傷と回復〉だ」ということになる。韓国の小説を読んでいると往々にして、本を閉じても登場人物がどこかで生きつづけているような気がすることがあるが、『回復する人間』に登場する女性たちがまさにそうだ。例えば、「フンザ」の物語は事態好転の兆しのないまま終わるが、それだけに今も韓国のどこかで主人公が、懸命な表情でハンドルを握りしめているような気がしてならない。ページを閉じても終わらない、読者と一緒に生きていく女性たち。そんなにも臨場感ある人物が奮闘し、煩悶し、そして回復する過程をともに味わっていただければと思う。
ハン・ガンは2015年と18年に、雪をモチーフとした中編「雪ひとひらが溶ける間に」と「別れ」を発表しており、それに新作を加え、「雪三部作」と呼ばれる小説集が刊行される予定である。この新作小説集や、また過去の2冊の短編集『麗水の愛』『私の女の果実』もいずれ日本で読めることを期待したい。特に後者『私の女の果実』の表題作は『菜食主義者』のもととなった短編で、ハン・ガンの世界を理解する上で重要な作品である。
斎藤真理子
【ハン・ガン『回復する人間』訳者あとがきより】