ノーベル文学賞作家ハン・ガンによる「究極の愛の小説」 『別れを告げない』訳者あとがきより
記事:白水社
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本書は、ハン・ガンの「別れを告げない」(文学トンネ刊、2021年)の全訳である。翻訳には初版を用いた。
ハン・ガンは、2016年に『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)によってアジア人初の国際ブッカー賞を受賞して世界の注目を集め、今、最も注目される韓国人作家と言って間違いないだろう。続いて『少年が来る』(井手俊作訳、クオン)が17年にイタリアのマラパルテ文学賞を、また本書『別れを告げない』も23年にフランスのメディシス賞外国小説賞を、24年に同じくフランスのエミール・ギメ アジア文学賞を受賞している。
『少年が来る』で光州民主化運動(韓国での正式名称。いわゆる「光州事件」)を描いたのに続き、本書は1948年に起きた、朝鮮半島の現代史上最大のトラウマというべき済州島4・3事件(以下、「4・3事件」。なお、韓国では「済州4・3事件」と呼ぶ)をモチーフとしている。しかし作家本人は刊行後のインタビューで、「今、何を書いていますかと質問されるたびに、『済州島4・3事件を扱った小説』とか、『死から生へと越えていく小説』、『究極の愛の小説』などと答えてきたが、その中で1つを選べと言われたら、『究極の愛の小説』と言いたい」と語っており、現代史がテーマの小説としてだけ受け取ってはいけないだろう。
自伝的な要素の強い作品である。主人公のキョンハはハン・ガン本人を思わせる作家であり、光州民主化運動をテーマに小説を書いたという設定になっている。文中では「あの都市」「K」などと表記されているが、そこが光州であることは明白で、例えば20頁に出てくる悪夢の「あの年のあの春、虐殺の命令を下した者がそこにいる」という部分は、全斗煥[チョンドゥファン]元大統領(事件当時は就任前)と、1980年5月の光州で市民デモ隊に下された発砲命令とを指す。この「虐殺の命令を下したのは誰か」という問いは、一貫して光州民主化運動の最重要ポイントでありつづけたが、全斗煥はその責任を認めることなく2021年に死亡した。
物語は、キョンハが光州の小説を書いているときに見た象徴的な夢から始まる。この夢は、ハン・ガン自身が『少年が来る』の執筆中や刊行後に実際に見たもので、「何かを語りかけてくるような夢だ」と感じていたという。それとは別にハン・ガンは、90年代後半に済州島に部屋を借りて何か月か住んでいたことがあり、そのとき家主のおばあさんに「このあたりは4・3事件でたくさんの人が射殺された場所」と教えてもらった記憶が夢と結びつき、『別れを告げない』が生まれたということである。
光州民主化運動を描いた『少年が来る』にも、作家自身を思わせる主人公が資料を読み込む段階で悪夢を見るという描写があり、この2つの小説の間には多くの共通点があるが、『別れを告げない』は、残酷な歴史を記憶することの意味に向けてさらに一歩踏みこんだ感がある。ここで大きな役割を果たしているのが、4・3事件のサバイバーである姜正心[カンジョンシム]と、その娘のインソンだ。
二人は、「この小説は究極の愛の小説」というハン・ガンの言葉を体現している。
【ハン・ガン著『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社刊、2024年)訳者あとがきより】