中米の熱帯の国ベリーズを知る
記事:明石書店
記事:明石書店
ベリーズは熱帯気候が卓越する中米のユカタン半島の東岸に位置する国である。異説もあるが国名のベリーズはマヤ語で「泥水」を意味する。旧名を英領ホンジュラスといい、1981年にイギリスから正式に独立した後も、イギリス国王を国家元首、英語を公用語とする立憲君主国となっている。
国土面積は日本の四国を一回り大きくしたほどしかなく、人口はわずか42万人弱の小国であるが、カリブ海世界の魅力と古代マヤ文明の歴史遺産を保有する独特の魅力を持つ国で、21世紀においてもマヤ人たちが伝統の一部を守り続けて暮らす国でもある。そして現代のベリーズは、マヤ系先住民に加えて、ヨーロッパ系、アフリカ系、東アジア系、インド系、メノナイトなど世界中からさまざまな理由で移住してきた人々とその混血の人々とが暮らす多民族多文化国家となっている。
ベリーズの最大人口都市はベリーズシティの約6万6000人で、総人口の13%強に過ぎない。人口1万人以上都市は他に6つあるが、都市人口率は46%余り(2023年推定)に過ぎず人口の過半数は、まばらに点在する農山漁村で生活している。道路網の整備は十分でなく、国土の東西南北を繋ぐ幹線道路でも全てが舗装されている訳ではない。かつて木材輸送のために鉄道が建設されたことはあるが、公共交通手段としての鉄道は建設されなかった。
1981年はベリーズが主権国家として国際社会に認められた年で、9月21日の独立記念日には全土で祝賀行事が行われているが、それ以前に実質的な独立はすでに達成されていた。
1946年に宗主国イギリスから自治権を与えられて以来、ベリーズで「建国の父たち」と呼ばれる賢人たちが宗主国の協力を得て憲法を制定し、政党政治による国家運営の基盤を創りあげていたからである。その結果、世界の多くの新興独立国が直面した権力闘争や独裁者による抑圧的な政治、内戦をベリーズは経験しなかった。
独立翌年から実施されてきた下院議員選挙の投票率は直近の選挙(2021年)を含めて70~80%と高く、人民統一党(PUP)と統一民主党(UDP)の二大政党制が根付いている。両党は中道左派と中道右派とされ、大きな政策的な差はない。
近隣の中米諸国が1980年代から内戦と混乱に苦しんだ中、ベリーズはこれを免れ、人口増加率をわずかに上回る経済成長を続けつつ、外交関係を維持する台湾や日本を含む諸外国および国際機関の支援を得て国内開発を進めてきた。
植民地時代の開発はログウッド(染料として使用価値のあった木)とマホガニー伐採に集中し、土地が少数の所有者に独占されていて、スペインとイギリスの協定で農業開発が禁じられていたため、19世紀後半から20世紀前半にかけてサトウキビの栽培と製糖産業の発展と外資によるバナナ・プランテーションの開設もみられたものの、20世紀半ばまで食料はじめ生活必需品を輸入に頼らざるを得ない経済構造が保持されていた。
21世紀になってベリーズ経済は農業と観光産業の発達によって多様化しつつある。カリブ海に面した約380キロにわたる海岸線に沿って世界第2位の規模を誇るサンゴ礁が発達しており、「キー」と呼ばれる約450の岩礁と小島が点在して、リゾート地として開発されており、観光施設が立ち並ぶ光景は圧巻である。
国連の「人間開発指数」による①非常に発展した国、②発展した国、③発展中位国、④低発展国の4段階のうち、ベリーズは③発展中位国に位置づけられている。しかしながらスラム街の存在は限定的であり、特筆すべきは先進国に比肩できる義務教育の普及と女性の社会進出である。「建国の父たちの世代」が国づくりのための人材教育に力を注いだ結果、教育熱心な国となっており、GDP(国内総生産)比5%前後を公的教育費に支出して全国に学校を作り、スクールバスを奥地集落にも走らせて子供の教育の機会を保証している。成人の識字率は男女共に90%台で、英語を公用語としながらもスペイン語を筆頭にしたバイリンガルあるいはトリリンガル(3言語話者)人口も少なくない。
もう一つの特徴は、出移民国であると同時に移民受け入れ国であることであろう。
20世紀後半から米国への出稼ぎ移民が増加し、現在ではベリーズ人の20%が米国内で暮らしている。一方で1958年からメノナイト信徒集団を農業に従事することを条件として受け入れ、さらに中米諸国からの転住者や難民を受け入れてきた。すでに多民族多文化国家であったベリーズにスペイン語圏の中米諸国の文化が加わりさらに彩を増している。
本書は、日本国内で紹介される機会が少ないベリーズという国の姿を多面的に紹介することを目指している。執筆者たちは、現地を視察し、また旧宗主国イギリスの国立図書館の古地図や文献を調べて、歴史・政治・経済・社会・文化をできるだけわかりやすく読者に紹介しようと努力したものである。