知らない文化、他者を理解する入り口に
――「エリア・スタディーズ」200巻おめでとうございます。国連の加盟国が現在、193カ国ですから、国の数よりも多くの本が刊行されているのですね。そもそも、発刊の経緯は。
大江:正確には、前史として1992年に出版した『韓国・朝鮮を知るための55章』(井上秀雄、鄭早苗著)という、単独で出した概説書があったんです。この本が良い反響をいただき、当時の社長で創業者の石井(昭男氏)から「これはいろんな国で作ったらどうか」と言われました。社員が集まって議論しながら、98年に『現代アメリカ社会を知るための60章』(明石紀雄、川島浩平編著)を出しました。それがこのシリーズの第1巻です。
――その時に工夫されたことは。
大江:1章4ページ、読み切りで60章。どこの章からも読めるようにしました。現代アメリカを最初のエリアにしたのは、そんなに複雑な理由はありません。すでに出ている他社の出版物を見ながら、日本人がどこに関心を持つか、読みたいかを調べ、やはり1冊目は日米関係だろうと判断し、編著者に相談しました。
――本のタイトルを「その国を理解するための」とか、「その国、これだけ知っていれば大丈夫」のような題名ではなく、「その国を『知るため』」としたのは。
大江:私たちが出す本は、学術的なトピックが入りつつも、初学者が簡潔に読み切れるように、一つひとつのトピックを短く、わかりやすい内容で作ろうと構成を組み立てたものですから、それに合う言葉は何だろうと考えた時、「理解する」というのはちょっと傲慢な感じがする。知らない文化、他者を「理解したい」と思うけれど、あまり無責任には言えない。そこで「知るため」という言葉を選びました。単純でわかりやすいし、内容にも合っているのではと思っています。
――それから四半世紀、2005年に『アルゼンチンを知るための54章』で通算50巻、2012年に『ロンドンを旅する60章』で100巻、2016年に『イギリスの歴史を知るための50章』で150巻。そして2023年9月、インドのラダック地方を紹介した『ラダックを知るための60章』で200巻を達成。担当編集者の長島さんは、いつから「エリア・スタディーズ」を担当されているのですか。
長島:私は入社して5年半ですが、入社半年後から約5年、担当しています。入社前から海外関係の調べ物をしようとする時には、ほぼ必ず「エリア・スタディーズ」に行き着いていました。もっと言えば、「このシリーズしかない」こともままありました。「こんなところまで!」というところも用意してくれている。他にはない品揃えという点において、著者や編集者諸先輩が積み重ねてきた四半世紀に及ぶ蓄積の大きさを感じています。刊行から時間が経ったものも、すべてとは言えませんがアップデートされています。実務に携わる者としては、これからそういうことを回していくのも、大事な仕事だと考えています。
――その「アップデート」について、どのタイミングで、どんな工夫をしておられるのですか。
大江:編集サイドとしては、たとえばその国の政権が交代した、あるいは大事件が起きたなどというのも、改訂をするための一つのポイントと考えています。ただし、このシリーズの場合は、どんどん変わる情報を追いかけていくっていうよりは、変わらないものを残していきたい、いつの時代でもその国が持つアイデンティティ、国民性を浮き彫りにしたい、政権が倒れようとも変わらない何かがある、それを捉えたいと思っています。
エリアの区切り方は無限
――読者の皆さんは、あまり知らない国で何かが勃発した時や、あるいは、国際スポーツ試合で日本と対戦する時、「どんな国だっけ?」と頼れる存在がこのシリーズです。それにしても、200巻も刊行し「ネタ切れ」にはならないのですか。
長島:それが、ならないんです。私が良い意味で使っている言葉が「見境なく」(本を出していく)。一つの国でテーマを絞るものもあれば、広域でまとめるものもある。書き手がいらっしゃる限り、無数にあります。国連加盟国の数よりも多い刊行数ですが、まだ刊行されていない国もある。このシリーズが、様々な地域を研究している方々に知られ、「この地域で書きたい」と企画を持ち込んでくださる方も多くなりました。中には、私たちではとうてい思いつかないような角度をつけた提案もあります。
最近は、たとえば『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』(川分圭子、堀内真由美編著)。たくさん小さな島があるカリブ海の中で、旧イギリス領、旧フランス領など、地理的にも入り組んだところから、あえて旧イギリス領だけをセレクトする。その領域を研究する方が何人もいらっしゃり、「研究会の成果を出したい」ということでした。こちらで考えていてもまず思いつかない切り口です。あとは食文化など、サブ的なテーマをつけるものも、これから取り組んでいこうと思います。また、国の中の地域の特質のあるところで出していく。そういうものも含めると、「エリア」の区切り方は無限です。
――民族や文化は国境で区切れないですよね。ところで、エリアの対象を「日本国内」にはしないのですか。
大江:検討したことは何度かありました。ただ、「日本人が読む、日本人のための日本の地域研究の概説書」とは、どういうものが良いのか。ひじょうに悩んで、まとまらなかったっていうのは事実ですね。現時点では日本の概説書は、正直難しいという気はします。ただし、やらなきゃいけないのは、日本人が知らなければならない日本のエリア。一つは沖縄、もう一つはアイヌ。ここは少なくとも作らなければと思っています。沖縄は今、企画が二つ走っています。文化人類学者の企画と、国際政治学者の企画です。国際政治学の研究者が中心となって作る沖縄本は、基地問題を通して沖縄を、日本人が知るための概説書という建て付けです。
刊行まで19年かかった本も
――刊行で苦労された本はありましたか?
大江:最も長く(刊行までに)引きずったのはまずアフガニスタンです。私が関わり始めて、2人ぐらい間に編集者が入って、最後は長島に。「9.11」の翌年、2002年に企画がスタートし、刊行までに19年かかりました。
長島:スタート時、私はまだ高校生です(笑)。
大江:そんなに長くかかったのは、作りながらアフガニスタンの情勢がどんどん変化してしまった上に、直接出向けない。何とか原稿を集めて、「ようやく校了」っていう直前で、「カブール(カーブル)無血開城」(2021年8月15日、アフガニスタンの首都カブールがタリバンによって制圧)が起こりました。これで、「また一巻の終わりか」と。
長島:お盆明けに最後の確認をしていただいて、8月中に印刷所に入るなと思っていたらあの状況に。なんとか手当をして、『アフガニスタンを知るための70章』(前田耕作、山内和也編著)を2021年9月刊行にこぎつけました。
大江:タリバンが政権を取った以降のことを、補論という形で加えて刊行したんです。
長島:まさに「すぐ古くなってしまう事実」の例で、8月後半から9月にかけて緊急に書いていただいたことが、10月に書店に並ぶ頃には状況がどんどん変わってしまった。それからさらに1、2年経つと「当時の状況なんて、今さら何の参考にもならない」というご批判もありました。けれども、ともかくその時点を切り取って出せたことには意義があったと思いますし、いろいろなことがあっても変わらない「根っこ」の部分を伝える本にはなりました。ここでまた諦めたら、次がどうなるかわからなかった。しかも、共編者の前田耕作先生は刊行の約1年後にお亡くなりになってしまった。事実上最後の本になりましたので、そういう意味においても、出せて良かった、と思っています。
大江:だいぶ年数がかかって、まだ出てない国でいうと、ブルガリア、ギリシャ。また、スーダンは、なかなか進まないなっていう間に、南スーダンが独立してしまい棚上げになってしまっています。
長島:スーダンは最たる例で、もともと用意していた枠組みが存在しなくなってしまった。仕切り直さないと、どうしようもない。そういう恐れは常にはらんでいます。
日本人が読み、学ぶための中立的な表現
――エリアを限ると、必ず起こりえることですね。逆に言えば、世界の森羅万象とともに寄り添うシリーズの最大の魅力。国も、それぞれのエリアも、生きている。変化している。現在進行形で動いていて、どちらの側から見るかによっても見解も異なってくる。
大江:そうですね。そのあたりは我々もすべて知っているわけではないので何とも言えませんけれども、『イスラエルを知るための62章』は、読んでみると「(編著者の)立山良司先生はなかなか苦労されている」と胸を打たれてしまいます。私どもでは、イスラエルの専門家で親しくさせていただいている方がいますが、立ち位置によって見方がまったく違います。戦争の名前も、どう書くのかで、立場を表明することに等しい。立山先生はそこを中和して、パレスチナに対する思い、和平に対する思いを念頭に置いた上で、まとめているのが伝わってきます。日本人が読むには適した本になっている、というのが僕の印象です。
――「日本人が読むには」という視点も重要な点なのですね。ところで、「読まれる国」と「さほど読まれない国」の差は、どうしてもあるように思います。エリアをコンプリートしていく上で、採算は取れるのでしょうか。
大江:採算を最優先に考えていないところが、明石書店の経営方針としてあります。「出すべきもの、出したいと思うもの」を、まず優先させる。このシリーズでいうと、全部の本が赤字ではさすがに持ちませんので、確実に需要のある国で(帳尻を)合わせています。
――それも、時代ごとで変わっていく可能性がありますね。いっぽう、若い世代の人たちが、内向きと言いますか、円安の影響もあるのかも知れませんけれども、海外に興味を持たない、あるいは留学を諦めてしまう学生が増えている、そういう現状に危惧は。
長島:昔だったら現地に行かなければいけなかったことがネットで、それこそ今の凄惨な戦場の様子さえもリアルタイムで見えるような。もっと日常的なことで言えば、世界各地のスポーツ中継もいつでも見られる環境になってきたから、別にそこに行かなくてもいいか、と思う感じはあるけど、では「知らなくてもいいか」といったら、そういうわけでもないんじゃないかと私は思っています。ネット上に玉石混交のいろんな情報が整理されずに有象無象に転がっている中で、専門家の目を通して、ワンセットになったものを提供することに、今の時代、特に意義がある。20年前からやってきたことに意味が出てきたんじゃないか、と思います。
大江:印象として、わざわざ面倒くさいところに行くことは減っているだろうなとは思います。ただ、私自身の体験で言うと、1冊の本の、ある写真にとても惹かれ、ここに自分が降り立ったらどんな感じがするんだろうかっていう憧れだけで、その場所に行きました。それはインドのバラナシのすごくゴチャゴチャしたところをリキシャが走っている写真でした。
「エリア・スタディーズ」の執筆者の中にも、同じようなことを書かれている方がいました。1冊の本が、その人の体験を引き出したり、それである意味人生を変えていったりする。本はそういう役割を私たちの世代の時には果たしてくれていました。衝撃を受けて、少し思考しながら憧れて、行って、見て、聞いて……。それで再び知識を得るために、このシリーズを手にしてほしいと思います。それが「知る」ことです。
――1人でも多くの方々がそういう体験をまた得てほしいですよね。
大江:そういう体験を何とか伝えたい。書き手は皆さん、その国に「ハマってしまった」人たちです。その国への愛がひじょうに強い、もう自分の人生から外すことができない。その国の人と関わり、その国の研究者となり、自分の人生の一部になっている。そういうものを全部ひっくるめて、我々は特に若い人に伝えたい。
10年以内に300巻を達成したい
――今後の「エリア・スタディーズ」の方向性は。
長島:このシリーズ名にある「エリア」は無限にありえます。その前提に立って拾い上げていくことは、今後も継続していきたい。大きい国、小さい国とフィルターをかけずに、どんなところでも作っていく気概を持ってやるのがまず一つです。また、必要になった時に古びていないように、改訂を続けていく。さすがに200巻も出てくると、どんどん広げていくばかりではないフェーズに入ってきました。その両輪を回していくことを、実務者として意識しています。
大江:今は「ユダヤ」を企画したりもしていますが、まずは193の国連加盟国をコンプリートしたい。あと、10年以内に300巻を刊行したい。国がある限りは、そこに国民、人がいます。その人たちは国に愛着を持っています。我々は、同等に扱っていく「義務」があると考えています。